緊急的に書いてます。
今日こそ早く寝ようと思って、布団に入ってからFB見たら、ノートル・ダムが燃えていました。
FigaroとかでLIVE配信見て、
あまりのショックに、言葉を失いました。
心臓がばくばくする。
このショックは、わたしにとって、2010年に鎌倉の八幡宮の大イチョウの木が倒れた時の衝撃と同じものです。
八幡宮だって、熱心に信奉しているわけではない。
それどころか、わたしは東京に住み、鎌倉のことなど、ほとんど考えもしない日々だった。
それが、大イチョウ倒壊のニュースを聞いて、赤坂の路上で、足がすくんで涙が溢れました。
翌日、慌てて一人電車に乗り、現場に駆けつけると、
小さな頃から「そこにあった雄々しきもの」が、無残な姿で横たわり、
それはまるで、死体だった。
わたしは号泣し、そして思った。
物事なんでも、永遠には続かない、と。
わたしたち鎌倉の人間にとって、大イチョウは、「いつでも当たり前にそこにあるもの」でした。
それは、おじいちゃんの小学校時代にも、母親の女学校時代にも、わたしの成人式にも、決まって背後に写っている「雄々しきもの」でした。
そこにあることが当たり前の。
わたしは、遠く離れた土地にいても、何歳年をとろうと、大イチョウがなくなることを想定して生きてはいなかった、ということを、
その時初めて気づかされました。
そして、強く思った。
新しい時代が始まる、って。
確信した。
そしたら、悲しみはどこかに行き、自分の中に、
ものすごく大きな力が湧いたのです。
その力を頼りに、その後今まで生きてきたと言ってもいい。大げさではありません。
思えば、その頃から、わたしが「見えない世界」からのあれこれを、色々とキャッチするようになっていったのです。
ノートル・ダムは、去年、実に30年ぶりに中を訪れて、
二十歳の時に初めて見た、あのバラ窓の、
美しいと心震えたあの時の自分のことは思い出したけれど、
ノートル・ダムという教会自体は、権威的な匂いが強すぎて、
あまり好きな教会ではない、と思ったことを、確か修道通信にも書いたと思います。
権威的というのは、例えば
ナポレオンの戴冠式の場所にもなったような、
要するにエライ人たち、エライ司祭とか、権力のアイコンといったらわかるかと思いますが、
わたしはそういう教会が好きではないのです。
けれども、
何世代もの昔からあって、今後もあり続けるだろうと、なくなるなんてことは想定すらしない、「存続」のシンボルであったことは、鎌倉にとっての大イチョウの例と同じ。
ましてや、カトリックの、大きな聖堂。
世界中の、誰もが知っているシンボルです。
「ノートル・ダム」というのは、
Notre(我々の)Dame(女性)、言うまでもなく聖母マリアのことです。
石の建物が、あんな風に燃えるなんて、
これは尋常ではない。
もちろん、原因はやがて究明されるでしょう。
でもわたしは思った。
これは、聖母の意思かもしれないって。
もう、聖母を祀った権威の象徴は要らない、って
聖母を崇めてお願いしたりするのはもうおしまい、って。
そんなことを、わたしたちに伝えて、
テヘペロかもしれない。
別に建物がなくても、
聖母はいます。どこにでも。
あの人は、別に悲しんではいない。
建物なんか形あるもの。いつかは無になる有限のもの。
日本では、平成が終わろうかという時に、
西欧社会でも、やはり終わるものがある。
ただの火災かもしれないけれど、
ものすごくシンボリックな意味を持つと、わたしは思っています。
書いているうちに頭が整理されて落ち着いてきました。
そう、だからやっぱり
わたしたち自身が聖母マリア。
1つの場所にこだわる必要は、もうありません。
新しい時代を作りなさい。
彼女は、きっと言っている。
だからこれもヒャッハー!な出来事なんだと、わたしは思う。
昨年、特に意図せず、ふらっと中に入って、やっぱりよかった。
あの場所に、違和感を感じた自分を確認できたことは良かった。
ああ、時代が変わります。
本当に、お慶びさまなことです。
さようなら、過去の歴史!
こんにちは、無数の聖母。
さ、新しいこの1日を上機嫌に過ごしましょう!
世界を救うのは、わたしたち自身。
読んでくれてありがとう!
またね!