皆さま、我が父は10月30日、天に帰りました。
20日には80歳の誕生日を祝い、ケーキのロウソクを吹き消し、もてる生命の最後の一滴まできちんと使い切りました。
非常に見事な幕の下ろし方、この数ヶ月で見せてくれた生き様=死に様は、我が父ながらあっぱれで、たいへん立派に生き切った彼を誇りに思い、またこの人の娘であることが本当によかったなあと思っています。
本当に得難い経験をさせてもらいました。
twitter には逝去の件投稿していたものの、続報をする余裕なく、慌ただしく日々が過ぎていきました。
先日、無事に葬儀を終え、ほっとしているところです。
まだバタつきはしますが、わたしも「それ以前」の日常ペースを取り戻していこうとしています。
メッセージを下さったり、心を寄せて下さったたくさんの皆さまにお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
「親を看取る」ということ、また癌というものに向き合うということは、非常に普遍的なテーマだと思います。
この件に関してわたしの得た経験、個人的な考え方、気持ちの持ち方は、おそらく多くの方の、役に立つとまでは言わないまでも、参考にはなることがあるのではないかと思い始めています。
今後の時間をかけてすべて開示していきたい。
お話もしていけたらいいなと思っています。
父が死んだことは、悲しくはなく、でもやっぱりもういないのかと思えば寂しい。
わたしと父の間に通じ合う特別なプロトコルがあって、それはかけがえのないものだった。
言葉を介して理解するものもあれば、言葉を必要としないものもありました。
前者は深く哲学的なもの、後者は限りなくくだらなく笑えるものです。これは親子だからというよりも、何か特殊な魂由来のもののような気がしています。
でも今のわたしは喪失感というよりは、彼の最後の最後を見届けて、やりきったなあという、何か、責任を果たした安堵感の方が大きい。
そして、この安堵感を持てたのは、つまりやりきった実感を得られていることで、誰よりも近くにいてくれたDNに心から感謝しています。
父の状態が悪化してからのこの数ヶ月間、DNは本当に支えとなってくれた。
まず、弱っていく父に、片時も離れず心を寄せ続けてくれ、真摯なまなざしで向き合ってくれ、1日の終わりに必ず話を聞いてくれました。
緩和ケア病棟に入ってからは、毎週末必ず会いに行ってくれ、わたしが病院に寝泊まりして数日帰らないことに不満どころか「体力と気力の続く限り頑張って側にいてあげなよ」と言ってくれ、家に戻ればわたしの疲労を気遣ってくれ、そして何より、彼は根本的に明るい。
そんなおかげでわたしは自分の家をおろそかにしている罪悪感を1ミリも感じずに父と密度の濃い時間を過ごすことができました。
わたしは今までの人生で持った感謝の総量をはるかに上回る莫大な感謝をDNに向けています。
見守ってくださった皆様、本当にありがとうございました。
父の魂はまだその辺をウロウロしています。好きだったお酒を飲み、食べたかったものを食べ、会いたかった人に会いに行っているでしょう。
時が来たら然るべき場所に行くのでしょうから、うまいことそちらへ向かえるよう、彼の大いなる人生に祝福を向けていただければ嬉しいです。
書きたいことは山のようにあるので今後も整理していきたいと思います。
今日はこの辺で。
読んでくれてありがとう!
またねー!