皆さんはどう思っているか知りませんけれども、イタリア人は忍耐強いです。
少なくとも、わたしは数年暮らした経験上、そう思います。
今回、このコロナ騒動で町が封鎖された彼らのあり方、
バルコニーに出て音楽を奏でたり、歌を歌ったり、病院で働く者たちへの賛美と感謝を表す手拍子をしたり、
つまり「陽気で楽しそうな様」が、インターネットを介して世界中に配信されている。
そんな彼らを見て、
「わたしの好きなイタリアが帰ってきた!」
と感じて、なんだか胸を熱くしています。
正直、ここ10年ぐらいのイタリア、もしかしたらベルルスコーニ以降のあの国は、
少なくともわたしにとって、「良さがわからない」というか、ただのつまらない国になり下がってしまったと感じていた。
彼ら特有の、能天気なしたたかさというか、
多少バカでも人はいい、「どうせ俺らバカなんだからせいぜい楽しむよ」みたいな感じとかがあんまり感じられなくなって(もちろんわたしの肌感覚で言ってますよ?)
特色を捨てて「普通を目指す」みたいなことでは何が面白いのかわからない。
よってイタリア事情にも、そんなに関心をなくしていたわけですが。
この機会によって
真の忍耐とは何か
がワールドワイドに知れ渡ることになるとすれば、素晴らしいことなんじゃないかと思います。
そこで思ったんだけど、忍耐には、「し時」というものがあって
イタリア人はそれをよくわかっているんじゃないかと。
あの人たちは日頃「さあ、みんなで!」みたいな行動は一切取れない人たちです。
ちょっとしたことでもやいのやいの、口々に言いたいこと言って、絶対まとまらない。
あの人たちが団結できる最高人数は「11人」が限度と決まっています(もちろんサッカーのことだよw)。
ムッソリーニだって、イタリアを「統一」することなんか無理だと言っていたわけですから。
そのようにして、割とどうでもいいことに関しての忍耐はゼロです。ゼロ!
「決まり事を守らなくてはいけない」という発想がない。何かと抜け道を探そうとします。
わたしも同じだからよくわかる!
だけど、ここぞ!という時には
まさに今みたいな状況では、
誰もガタガタすることなく、(そりゃ中には一定数いるでしょうけれど)
各自がそれぞれの方法で楽しむことをみつけ、みんなそれぞれが勝手にアゲることをやって、周囲もそれに乗っかる。
だって、今ガタガタ言ったってしょうがないじゃん。
普段「忍耐」を小出しにしない分、温存されていた「でかい忍耐力」」が出るんじゃないのかな、って考えた。
引き換え、日本人のバーイ、小さなことでもすぐに我慢してしまう。それが美徳と勘違いして。
自分が我慢することで解決しようとする。だから我慢しない人が出るとみんなで叩く。それが正義だと思ってるから。
でも、そんな風にして、いわば日常がミニミニ忍耐の連続なので、ここぞっていう時がいつなのか、もはや自力ではわかんない。
「機」がいつなのか、自分で計る能力がないというか。
人の忍耐力の総量が決まっているとすれば、普段から使いすぎてると、本当の忍耐が必要な時に足りなくなるんじゃないか?
などと、わたしは思いましたよ。
まー、単に好みの問題かもしれません。
わたしはプチ我慢を重ねて、本当にやばいって時に爆発しちゃうような生き方より
普段は我慢しないけど、本当にやばい時にはブレない、って方が
数万倍かっこいいと思ってしまいますよって話。
あなたはどっちが好きですか?
お好きな方を選びましょう。
「街なかでの社交」が、日本人の20倍ぐらいの重みを持ち、ほぼ生きがいのひとつとも言えるイタリア人にとって
引きこもりを強要されているこの数日間の苦痛は、想像するに余りある。
要するに暇で退屈極まりない日々だろうと思うのです。
ま、それでも愛人とデート♡とかには、我慢できずに出かけていくんだろうな、なんかもっともらしい理由を作り出して。
・・・などと考えると、ちょっとじわじわウケたりします。
少なくとも、イタリアにいるわたしの友達は、誰一人として
しょーもない不安ベースの情報をシェアしたりもしていないし
不満を漏らしたりもしていない。
あーーよかった。わたしはそんなやつらの友達で、って思います。
「腐っても文化がある国」の底力を感じる。
イタリアばんざい!
能天気力は1日にして成らずだよ!
読んでくれてありがとう!
またね!