今日飛び込んできたもう一つの話題は、やはりイタリアからで、
パオロ・ジョルダーノという若き精鋭作家、というか、元々は数学者、素粒子物理学博士というバックグラウンドを持った文学者、と言った方が正確だが
そんな彼の最新著作で、書き下ろしと同時に緊急出版、という異例のスピードで翻訳〜出版決定となったらしい著作『コロナの時代の僕ら』
出版社「早川書房」の判断により、数日間の限定で全文が無料で読める、というもの。
このニュースを知ったのが、ページの閉鎖まであと40分!というところだったので、そのまま一気に全部を読んだ。
内容は、ものすごく良いです。読むに値する。
もちろん、無料公開が終わっただけで、1,500円程度で読めるものだから、みんなにもぜひ読んでみてほしいです。予約して。
単行本とKindleとあるよ。
一方で、わたしはなんというか内容とは別なところで、絶望的な気持ちになってしまった。
というのは、この著者のような知性が、もう日本には存在しない、という事実をまざまざと感じるから。
で、そのことがどう危機的なのか、ということを伝えるのに、けっこう、頭がグルグルしてしまう。
このような知的な存在が日本にいないということを認識している人の数が少ない。
多くの日本の人は、日本の外では知的な存在がそれなりの数いて、それなりの存在感を放ち、それなりに影響を与えたり、讃えられたりしているのだ、ということを知らない。
日本にも若く知的な存在が落合陽一以外にもいるのかもしれないが、社会的地位が与えられていない。
彼らの発信することを、人々に知性がないから理解できないし、だいたい知性を重んじようとしていない。
「難しいことはわかんないから」というキラーセリフ一発で、深く考察したり、別な仮説を試みたりすることもなく
脊髄反射的な「反感」だとか「違和感」だとかを高く掲げるだけの人たちになってしまった。
ああ、いつから、こうなっちゃたんだろう?
少なくともちょっと前まで、スーザン・ソンタグと大江健三郎の往復書簡なんていうものはあった。
なんでだろう?
・・・・いや、まったくうまく、言いたいことを書けないんだけど。
統合だのなんだのというけど、少なくとも日本は孤立しているよ。
それが良いとか悪いとかを言いたいわけではないけれど、
知性のない社会はつまらない。
つまらないどころか、危険ですらある。
今、テレビを見たら、「ニュース」であるにも関わらず、「それはニュースではない」ということしかやってない。
誰にでもわかりやすい話=「知性を欠く視聴者」向けの話。いちばん「できない子」に合わせた授業っていうか。
なんの意味もないキャスターが、「それは良いですね」などというどうでも良いコメントをつけて紹介するどうでも良い話、
事実だけ伝えていれば良いものを、どれだけの実績があるのかわかったもんじゃない「専門家ではない専門家」に対してタレントが質問してタレントが感想を言う。
「健康の話」と「経済の話」を区分しないで突き進む。。。。
情報がバラつきすぎて、イタリアに見られる結束や崇高さとは異質なものが、社会に存在している。
これは仮に、政府が、自粛と補償をセットで提案したら、こうはならなかったのか?
わたしには、とてもそうとは思えない。
こないだまで「絆」とかなんとか言ってたのに。
世界中で、これだけ人が死んでいるのに、なにか、日本は何かが、、、、、変じゃないか?
それは誰が悪いのかって、
誰も自分は悪くないと思っているわたしたちが悪い。
政治が悪いわけじゃない、あべちゃんがいなくなれば変わるわけじゃない、政権変われば良いわけじゃない。
わたしたちが知性を放棄したことがとにかく悪い、
と、わたしは思う。
知性とは知識のことではない。「誰かが言ってた」ことをインデックスすることではない。
考える能力のことだ。
社会について、現象について、人間について。簡単には答えの出ないすべてのことについて。
知性を放棄してわたしたちは何を求めたんだろう?
そんで、放棄した代わりに得たものはなんだろう?
コロナはいつか収束するだろう。
見知らぬ誰かを守るために、わたしたちが正義の味方となれる手段はただ一つ、「何にも活動しないこと」。
人と交わらずボケッとしてりゃ、半年後か、3年後か、10年後か知らないけど
活動を再開することはできるだろう。
災害がきても、どうにか生き延びることはできるかもしれない。
(話が大幅に逸れるけど、ちなみに、このところものすごい硫黄臭というようなものを感知している。今も感じる。なんか変だなと思っていたら、昨夜茨城で?地震があった。我が家も揺れた。硫黄臭はまだ続いているから、さらになんかあるかもしれないよ)
だが、非常にアレな言い方だけれど、
わたしたち果たして生き残る価値ってあるんだろうか?
・・・・てなことを考えてしまう。
いや、もちろん、生命を持つ全ての存在は生きている意味があると思う。
けれども、けれども、だ。
少なくとも自分自身のことを考えた時に、
この淘汰を生き残る価値があるのかなー、、、、と思うと、甚だ疑問だ。
まあ、そもそもそんなに生き延びたいという意欲がないわけだが、「価値」となると皆無な気がする。
いや、ま、
そうは言っても、
生き残った者が次の世界を作っていく。
ただそれだけなんだってことが、真理だと思うけれどもね。
まあ、そんな感じで、ある意味で途方もなく絶望していて、
一方ではこの状況を悲観もしていなければ楽観も一切していないという
そんなわたくしでございます。
まあ、本は読んでみてね。
とりとめもない話を読んでくれてありがとう。
またね!