いやーーーーーーーーーーーーーーー見た?
号泣してしまったよ。
わたしにはまだあのエモーションが残っている。
冒頭のナレーションからして良かった。途中はさまれる美しい各地の映像は、イタリアで暮らした日々のいろんな美しい思い出を蘇らせて、同時に心が痛んだよ。
アンドレアは最初こそ少し硬かったけど、しばらくして気づいた。
この役は彼以外になかったな、と思った。彼にしかできない、ぴったりな役だと思った。
なぜなら彼はmodesto(ぴったりな日本語わかんない)で、オーバーアクティブでなく、感情を表情で表したり、腕を振り上げたりして歌わない。
淡々と、「歌」と一体化して、直立不動で歌う(藤圭子との類似性)からこそ、わたしたちは引き込まれる。
本当に力のあるパフォーマンスとは、そういうものだと思うんだ。余計な演出はいらないんだよ。
彼の歌う姿に、人間の崇高さというものを感じて、涙が止まらなくなった。
目の見えない彼に、今この世界はどう映っているのだろう。
もしかしたら、ドゥオモの中には、無数の人たちが詰めかけているのではないか。
そこには、3曲目、4曲目と続いたマスカーニもロッシーニもいて、見守っているのをアンドレアは見て(感じて)いるのじゃないか、
と思ったら泣けて泣けて、泣けてきた。
だし、その選曲に偉大なイタリアのすべてを感じた。
こんなことはイタリアにしかできない。
こんな舞台はイタリアにしかないし、過去の偉大な作曲家たち、現代の現役のテノール、今も人の生活に浸透し続けている文化。
こんなことは、他のどの国にも絶対に真似ができない。
「過去の文化」で今まで食ってきた唯一無二のイタリアの凄まじさを改めて感じた。
それでこの国は、この先もきっと蘇るだろう。
たとえ人口が半分になっても、ポストコロナの時代を作るだろう、なぜなら人のDNAの中に、ペスト転じてルネサンスの経験が刻まれているから、、、と思った。
やっぱり、文化は永遠なんだよ。特に音楽は。音楽だけは、絶対に不滅なんだよ。燃えたり消えたりしないんだもの。
それでわたしやっぱり、わたし人生の半分の年数を、イタリアと関わって生きてきたこと、
ああ数年間でも、こんなところで暮らしていたことは本当にどんなに素晴らしいことだったか、
それを可能にしてくれた境遇、それができたこと、に対してものすごい感謝の気持ちを持った。
最後の曲アメージング・グレースは、オトーサンもとりわけ好きで、よく歌ったりしていたから、音楽好きな彼はきっと現場に駆けつけて
アンドレアの近くで聴いているんだろう、、、などと思った。
そんないろんな思いが駆け巡った25分。
あっという間の走馬灯。
終わってからもしばらく涙止まらず、一人ルルドの泉状態。今でも、泣けてくるほどだよ。
すべて収束したら、とにかく行きたい。ミラノに行きたい。人々の元気な顔に会いに行きたい。
この中継のことはもちろん一人で実家にいる母にも伝えていて、オンタイムでも見たようだけど
朝、ラインが来ていた。
こういう反応を見ると、
逆にあの悪夢のような数年間、彼女にくっついていたものの恐ろしさが
今になってマザマザと、(マザーだけに)
あらためてどんなに異常なことだったか、、、、と思い返してゾッとする。
こんなことを言う人では、完全になくなっていたからね。
マリアさまありがたし。
本当にありがとう。
そしてわたしは人生における仕事をした、と思う。
だからもう恐れるものは、実際なにもないんだよな、と思ったら
コロナも何もかも、特に恐れることでもなし、という気持ちに、あらためてなったよ。
で、これを書いているナウ!!!!!
昨日書いた、ベレッタ先生から返事きた!!!!!!!
存命で無事だった!!!
何もかもが本当にありがたいです。
ありがとうローマ帝国、ありがとうイタリア、ありがとうアンドレア、ありがとうテクノロジー。
ありがとう、お母さん。ほか、わたしに連なるすべての人たち。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
で、読んでくれてありがとう!
またね!