読解力のある、もはや長いお付き合いである察しのいい皆さんはお分かりかと思いますが、
わたしが「飽きた」と言っているのは、このコロナ一色に染まった「世相」でございます。
正直、わたしは誰に命令されるまでもなく、「自主的に「自粛」」して2ヶ月経った。
それは別にいい。特に文句はない。
わたしは大変な苦痛にさらされている我が第二の故郷イタリアのみんなに歩調を合わせようと思っただけだから。
しかしなぜこの国もロックダウンしないのかとイライラしている頃、
「どうせインフルエンザより致死率低いでしょ」などと言いながら積極的に街に繰り出していたような人が
今では「他県ナンバー、湘南に来るな!」とか、「どこの店で行列してる!」とかSNSで日々わめいている。
人間の考えなんて、あっという間に変わるものだ。
一方わたしはこの2ヶ月間の他国の状況から、いろいろと疑問を持つようになったし、
自分なりの推理も納得がいったので、もうどうでもよくなった。
今や、この国の世相では「動く人」は弾劾すべき悪だ。
家の前に他県ナンバーの車が止まってる。警察に連絡した。とか
今日、海に入った地元のサーファー恥を知れ!とか。
要するに、悪者を見つけて退治してやる!と言う立派なお考えをお持ちな方々。
わたしはうすら寒いものを感じる。
言いようのない気持ち悪さを感じる。
密告社会は、このようにして形成されていくのだろう。
民衆が、自発的に「変な人がいます」「規律を守らない人がいます」と声を大にして言う。
不安はもはや正義になった。
自ら自由を放棄させるのに一番効果的なのは「敵を作り、不安と恐怖を与えること」だ。
人を閉鎖空間に置き、同じ種類の情報シャワーを浴びせれば、人なんかあっという間に洗脳される。
「誰かの命が失われます」は一番効果的なフレーズだ。
いやいや、待て待て、その死因は、本当にコロナなのか?
いやいや、待て待て、1日に死ぬ人間の総数はどんぐらいだ?
は、出る幕もない。
本当に「動かないことで早く収束する」のが事実なら、
「動く人」が悪いのではなく、「人が動けるようにしていること」の方が悪い。
動ける自由を与えられているなら、動きたくなる人がいるのは当たり前のことだ。
今、「常識がない」などという言葉で人を責める人は、間違いなく「常識教」の人で、
常識というものが「ある」と思っている人だ。
「世間の総意」で動く人だ。
その「常識」に自分が縛られているから、そこに縛られない人間が羨ましい、疎ましい、忌々しい、お前も自分同様縛られろ!という回路が働いている。
「前代未聞」と言われている、「未知の」と言われている、つまり正体のよくわからないウィルスは、未だかつて人類が経験したことのないもの(と言われている)。
従って当然、対策としては何が正しくて何が間違いか、誰にもわからない、という大前提を
みんなとっとと忘れて、簡単に人を責める。
悪者を見つけておけば簡単に安心が手に入るからだ。
そして次から次へと悪者を探していく。
知性がなさすぎる。
わたしはそういうのが、たまらなく嫌だ。
わたしが嫌いなのは全体主義で、自ら進んでそこに加担するバカな人たちだ。
戦前とかたぶんこんな感じだったんじゃなかろうか。
医療崩壊を防ぐために家にいる、と自分で納得して決めたなら自分は家にいればいいだけで、
人のことはほっとけ。
人を取り締まるのはあなたの役割ではない。
ギスギスした空気を助長してどうする。
悪者探し以外に楽しみがないのなら、それは自分の問題だということに気づけよ!と言いたい。
そういうものすべてを含んで、
わたしはもう飽きた。
そして人々が限りなく不安を刷り込まれた後に、颯爽と登場する救世主がいるんだろう。
人々は諸手を挙げて歓迎するだろう。
その名はワクチン様だ。
一方で、今日こんな記事を見つけた。
Coronavirus: US will not participate in WHO vaccine project after Trump turned against it
おお!と思った。
意味がわかる人だけがわかればいいと思う。
わたしは個人的に、この件は非常に興味深く、引き続きウォッチしていこうと思う。
まあ、そんなわけで、
こんな状況に飽きたと思う人は飽きたと言うのがいい。
それで失う友達なんて、別に大した存在ではないんだよ、もともとね。
読んでくれてありがとう!
またね!