メモなので脈略なく。
「考える」ってことと「悩む」ってことは別種のことなんだけど、それを同一視している人もいるのかな、と。
解を導くために思いを巡らせるのが「考える」行為で、
解がわからない(あるいは無意識的に解を得たくない)状態でモヤモヤがのしかかっている状態が「悩む」だと思う。
なので、「悩みがない状態=解を得ている状態」と思いがちだが、そもそもそれ(なにがしかの懸案の件)について考えることを避けていれば
解は得られていないけれども悩みはない
というフェイクヒャッハーな状態には、わりかし、誰でもなれると思う。
けど、このフェイクヒャッハーは外部要因によって揺らぎがち。
というか、そのヒャッハーは外部依存だから。
で、揺らぐことは別に悪くない。
揺らぐことは普通。
で、「考えることを避ける人」は、「なぜ、揺らぐんだろう?」ということを「考えない」。ただ「悩む」。
悩むのに飽きたころ、バイオリズム的な上昇、もしくは新たな外部要因によって気分がアガり、また再びのヒャッハー(フェイク)状態に戻ったりする。
「考える力」というのはすごく大切で、聞いたこと、あるいは読んだこと、見たこと、などを瞬間的に理解できなかったとしたらば
取り急ぎの「未決案件BOX」につっこんどいて、
折に触れ「あれはなんだったんだろ?」と反芻しなければ理解できるようにはならない。
いや、正しくは「未決案件BOXに入れる」ということそのものが大切で、
考える力がない人は、このBOXに入れないで、「なかったことにする」力が強いのかも知れない。
なかったことにしているから、都度都度理解できないもの・ことの量はかさ上げされていく。
しまいには理解できることの方がはるかに少ない、ってことになる。
まあ、いいけど、実はこれ「わたしにはわからないから」というキラーワード一発で、
話のレベル感をいきなり低きに導く旗振り役になりかねない。
知性はないよりあった方がいい。はるかに、いい。
てか、知性は必須だろ。
今のジャパンの状態は知性が著しく低下した成れの果てで、幼稚なことが「議論」の俎上に上がっては、クリエイティブな解決への道は閉ざされる。
「考えるな、感じろ」はマジックワードで、
そりゃもちろん、「考えるより感じろ」は鉄則なんだけれども、
考える力がない人は、「考えるな、感じろ」を、「考えなくていい」と受け止めるからけっこうやばいワードなんじゃないかなとも思う。
だって一方で、わたしたちは、「自分の頭で考えて行動するスタンドアローンな存在」であるべきだからねえ。
このあたりは、考える力がないと非常にややこしいんじゃないかと思う次第。
簡単な日本語って存外多くの意味を含むから難しい。
で、この「考える力がない人」は、もしかしたら何かのディスオーダー(機能不全)かも知れないが、そんなことは稀で、
もしかしたら、何かの「機能封印」ケースもあるんじゃないのかな、とわたしは思っている。
自分でその機能を封印しているか、あるいは「何か」によって封印されている、と疑ってみてもいいのでは?と思う。
だいたい考えるチカラというのは誰にでも備わっていて、ただその考える「スキル」を知らないだけだと思うんだ。
とにかく「自分と向き合う」ってことは、徹底的に考えることだと思うし、
一旦できあがった自分に関する固定観念をぶっ壊して再構築する以外には、リアルヒャッハーには程遠いわけで。
あとは「弱者信念」というか、「奴隷根性」というか、
そういうものから自由になって、真我を生きる、ということの重要性を腹に落とすことはもっとも大事。
こないだzoom講座「二元論ナイト」で喋ったのは、
個々の課題を解く話ではなく、個々が考えるスキルのための「素材」であって、
それに沿って考えれば、大抵のことは問題ではなくなる、というものだけど、
一回聞いてわからなかったとしても、それは大した問題じゃない。
でも、「なかったことにする」のであれば、それは結構な問題だと思うなあ。
とかなんとか。
読んでくれてありがとう!
またねー!