同行二人というのは、
同行のおふたりさん!ツー意味じゃなくて、ドーギョーニニン。
お遍路さんの旅路で、「独りで回っても、いつもお大師さまと一緒にいる♪」っていう空海信仰だと理解しているけれども、
初めてその言葉を聞いた子供のわたしは、
♪だぁれもいないとおもおっていってもっ どこかでどこかでエンゼルが〜〜〜♪
と同じ理論でしょと思い、そしてそれはなんだかとても素敵なことだと感じたわけだ。
その後、時が進んで20代の時には、『空海と錬金術〜金属史観による考察』という本を読み、信仰(てかこの場合宗教)の陰に隠されてしまった空海という人物そのものに関心を持った(ヤツは一体、何がしたかったんだろう?)が、そもそも「信仰」がないのでお遍路を回ろうとは思わなかった。
が、さらにもう少し時が進んで、わたしが鬱で処方された抗精神剤の後遺症(薬をやめるといきなり反動が出るアレ)に悩んでいた時、澁澤龍子さんから聞いたあることが頭に引っかかっていた。
それは、その道の大家といってもいい某有名コラージュ作家の件で、
それまでありとあらゆる薬を持ち歩き、その数「カバンに入りきらないぐらい」(おそらく誇張表現)だったのを、誰かの勧めによってお遍路に出た。当然身ひとつでいくわけだから薬の束を背負って歩くことはできない。でも歩き始めたら、もう毎日が必死で必死で、一日終わったら疲れ切ってぐっすり休み、「あら?気がついたら薬なんか飲むのも忘れてたわ!」てなことになって、今で言ったら断薬に成功した、ってことになるエピソードだった。
ふ〜ん、、、と思った。
人間これ以上ないってほどどうしようもなく追い込まれたら、依存心どころじゃなくなるんだねえ、と思った。
これは今でもわたしはそう考えていて、よくあるいろんな「悩み」をいつまでもグチュグチュ言ってる人ってのは、ある意味まだ「余裕」があるってことなんじゃないの?とも思う。
ま、だからと言ってお遍路に出る気は起きず、代わりにわたしは半年ぐらいフィレンツェで過ごすことにした。
当時のわたしはイタリア語も「基礎」をおさめた程度で、慣れない環境で毎日それなりに神経使うわけで、それ以来確かに、そんなもんを必要としなくなった。
後から考えれば、要するに家から離れるってことがいちばん必要なことだった。
もっと進んで30代の頃、ミラノから帰国して勤めた会社にやたら四国出身が多く、いちいち話に出てくる。それに「過酷な体験をしてみたい欲求」というのもあって、もう一度お遍路のことをぼんやり考えるようにはなったが、どっちかっていうと
歩いたら本当に空海が出てくるんだろか?
という、ある意味検証体験をしてみたいだけという興味だったが結局、その興味はさほどでもなく、今に至るまでやっぱやってないし、
同じ巡礼ならどうしたってわたしの場合、サンチャゴ・デ・コンポステーラの方が断然興味あったわけだが、それも今、最新状態のわたしにとっては割とどうでもいい話になってしまった。
ていうか、
別に歩かなくても、過酷じゃなくても、
わたしは一人じゃない。
「いる」ってことがわかってしまったので、エブリデイ同行二人だ。
何が「いる」のかわからないし、別に名前を必要としていない。というか、二人どころかかなりの「御一行様」かもしれない。
これねー、どんな人でも「自分一人」と思ったら大間違いというか、まーもれなくついてきますよ。「なにごとか」と一緒にいますよ。
多分「名前」を求めるからみんなややこしくしている。
そんで最近は、何をしていてもわたしの中では藤圭子が唄っていて、
集中すればするほど圭子さまは唄っているから「わたしの中で」歌っているのかどうかすらも疑わしい。
・・・ということに、こないだ植木屋作業をしながら気づいた。
それは「鼻歌を歌いたくなる気分」とはまるで違うもので説明不能だが、なんだか知らないけど勝手に流れている有線放送みたいなもんだ。
実際、なうこの時、文章を考えているこの時も彼女は唄っている。最近ハマっている人はもしかしてみんなそうなんじゃなかろうか。
むしろこっちの方がはるかに「同行二人」感があるぜってことで、人知れずウケているワタクシでございます。
それにしても昨日から異常な眠気。
目は開けられないけど、脳はまともに活動している、というおかしな状態。
アウトプットはできるけどインプットはできない状態。
寝るわ。
ほなまた!