昨日、一昨日と、鎌倉も通り雨に見舞われ、この曲を思い出した。
圭子さまの命日も近づく。
歌はそれぞれの琴線を揺らすもの。この歌の解釈についてガタガタ言うのは野暮も極まろうというものだ。
けれども、この曲はヒカルちゃんの最高傑作で、これ以上のものは金輪際難しいのではないだろうかと、悲しいながら思わずにはいられないし、ああ、それはあまりにも皮肉なことだ。
わたし個人は「勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々」という短い中に強烈なダブルミーニングを見出してせつなくなる。
勝てぬ戦とは、もちろん
自分が歌手としての藤圭子には勝てないこと
そして
母を蝕む病というものに、家族は決して勝てないこと
のふたつ(もしかしたらもっと)を込めていて、かつ、そんな自分を客観的にみているヒカルちゃんの視点も感じて、まじまじと心に染み入る。雨のようにじっとりと。
「自由になる自由がある」も、母が現世の苦しみから自由になる選択をしたことに最大限の理解と尊重を持って受け入れていることが、彼女の聡明さと、それゆえ深くなる悲しみも感じてしまう。
ああ、なんという人生なんだろう、この親子は。
ただの通り雨がいつまでも止まない心境を思うと、生きている間にかわしておきたかった言葉が叶わなかったことほど、人を苦しめるものはないんじゃなかろうか。
それは、残った者にとってあまりにも辛い。
この母子に限らず、母と娘の間には、常に「のっぴきならない事情」が横たわっている。
そしてそれはたぶん、解消されることを望んでいる。
今、わたしは、それが可能だと思っている。
・・・・という話はこの前書いた。
とにかく、人は皆、母から生まれている。
読んでくれてありがとう。
またね!