左脳で捉えられることには限界がある。
左脳理解って物事をある特定の枠組みに入れて初めて成り立つことなので、その枠からはみ出したことはカットされてしまうわけだよ。
例えばある奏者の演奏とか、藤圭子クラスの歌声には人間の耳が知覚できないレベルの周波数が含まれていて、そここそが「キモ」な訳だが、いやー、それは耳で拾えないし別にイラネっしょってことで、カットしちまえばイイ的な発想がCDというものだったわけだ。
本当にすげー大事なことは左脳からは生まれもしないしキャッチもできないわけで、その領域のことを必死になって左脳的な追求をするのって、
(いやー、したけりゃすればイイとは思うが)割と途方も無いことだと思う。
いや、でもね、「学問」というものは、追いきれない現象に対する後からの解析、な訳で、それはそれでやっぱりすげー大事だと思います。
うん。
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わたしが「左脳的追求はやめなよ!」って思うときは、
そこをそのように追求しても本質からは遠くなるだけなんじゃないですか?
という場合と、
ねえ、それって結局、最初から可能性を小さくしてるってことじゃないですか?
という場合。
拡張より矮小、みたいな感じの。
得てして、自分でトライする前に答えを欲しがるタイプというか。
「正しい」みたいな確証がないと石橋を渡れないタイプっていうか。
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でもね、
「考えるな感じろ」
は、けっこう都合よく捉えられてる気がしなくもなくて、
「考えることができる(考える能力がある)けれども、そこに答えはないから、感じる方がいいよ」
なはずだが、ただ単に「考えナシがよろしい」みたく受けとめてるムキも多いんだろうねえ。
わたしは、知性というものは、そうは言っても、めちゃくちゃ大事な要素だと思っていて、
それはつまり「一人で考えた先に答えを出せる力」だと言ってもいいと思う。
さっきの「先に正しい答えを欲しがるタイプ」は知的なのかっていうと、結構そうでもないと思っている。
はっきり言った。
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急に流行しだした「あるもの」があって、
いや、もちろん以前からあるものなのだろうが、それがものすごいスピード感で広まったことによってわたしの耳にも届くようになった。
実証ベースの動画をいくつか見て、おお、これは画期的にすごいなあ、と素直に礼賛した。
だし、わたし自身が「ナウな論理を超えたもの」を作って販売している身であるからして、「よくわからないけど、こういう現象が起きている」みたいな事案は、おそらく地上にいくつもあるのだろうし、むしろもっと増えたらいいと思っているし、
それこそ左脳を超えたところにあるものであるにせよ、いや、であるからこそ、
ユーザーが増えることによってエントロピーの増大みたいなことが起きるであろう、いやー、世界は愛でできてるんだよー
ってことは、多分その辺の誰よりも、「そうだ」と思っている。
ある時、そこにゴクゴクまっとうと思われる「疑問」をもった人が、その疑問を解消すべく疑問を投げかけたところ、
その「あるもの」のファン?信者?の人たちからの拒否反応が凄まじいものがあった。
冷静な「質問」に対する返答にはまったく思えないものが羅列されていくさまを見て、これが「愛」なのか?(笑)と思ったし、
いや、ちょっとマジ怖いと思った。
というのは、「この疑問を解かずにそれを続けた先に、環境がどうなるかということの責任は考えませんか?」みたいな問い(もちろんうる覚えだよ)に対する
あまりにも考えることを放棄した人たちの「楽しかったらそれでいい。文句あるなら出てけ」的な論調と同調に、
まあいわゆる正常性バイアスってやつなの、これ?
わからないけど、知性の欠如ってマジで怖い、と思った。
一旦止まって考えることを「しない」が、「考えるな感じろ」と同義に扱われてしまうこと。
今は本当に無害なものだとして、もし万が一、仮にある日こっそり有害なものが混入されたとしても誰もわかりようがなく、地球平和のためだと信じてそれを投下し続けるプラットフォームがすでにある、ということなんだ、、、、、というふうに考えると、まあ、それはちょっとゾッとするんだよな。
それって、考えなくても「感じる」怖さなんだよな。。。。
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まあ、色々と、世の中は混沌としているな、、、、、、
「考えるな感じろ」は使われたいように使われてるなー。
結論はそれ。
ほなまた