そういうわけ(昨日の話)であるからして、帰宅してドン疲れ、
今日も朝、ひっさしぶりにアラームなったもご存知なしで、なんだか知らないけどとにかく疲れてたんだね。
ふと、目をさましたら12:08。
やべ!
本日は銀河観音のサチさんと某所でランチの予定。待ち合わせは12:30鎌倉駅だ。
やべやべやべ。などと思う暇もなく立ち上がり、服を着て、歯を磨いて、眉毛を描いて、家を出た。
ああ、久々の緊迫感。
江ノ電の中で「遅れまーす」と一方入れようとして、メッセンジャーの履歴を見たら、約束は13:30だった。
かーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(ま、あるある)
朝のコーヒーをどっかで飲めばいい。
で、入ったお店に知り合いがいた。
ひとまわり小さくなって「コロナ太りじゃなくて、わたしの場合はコロナ痩せなのよ」と言われた。
そうは言っても、自分は暇になったわけじゃない。やること、やりたいことがある中で、おのずとご飯は「食べに行くよりは、お惣菜を買う」とかになりがち。
で、お惣菜だけじゃなあ、、と思うから数品作って付け足したりして、結局手間は変わらない。
そんなことをやってるうちに「美味しいものを食べたい、食べに行きたい」という意欲すら失われて着ているのよ、、、と言ってた。
話を総合してみると、要するに「家事が苦痛だ」ということに尽きると思う。
そりゃそうだよ。ほんと、そうだよ。
でも、コロナがきっかけとなって、「苦痛だ」ということに気づいてしまったら、むしろもう後戻りはせず、苦痛からの解放に向けて一点突破してもらいたい。
多くの女たちが、「真の苦痛」に向き合うには、コロナさんはある意味いいチャンスなのだ。
オレんちのエンゲル係数の凄まじい高さを見よ!だ。
苦痛からの解放という点においては、
本日行くお店の店主が先日、「何もかも一人でやっているわけで、テンパっている時は愛想笑いすらできないことがある。俺は今、いっぱいいっぱいだ(要約)」というようなことを投稿していて、
わたしは、うん、うん、と思った。
男の人だって、行き詰まりを感じたならば、弱音を吐いたっていい。
それに、真相を吐露しない限り、客は意味不明な「過剰な」愛想を「サービスとして当然」だと勘違いしたりするし、昨今ではその程度のことをガタガタとSNSに書き連ねたりもする。
しかしどうなの?
昔は、「味はいいけど無愛想な店主がやってる店」なんて、割とあった。
人に過剰なニコニコを求めて何が満足なのか。普通でいいじゃん、普通で、ってわたしは思ってる。
意に反した過剰なニコニコを提供するあまり、働く側が心を病んだりする方が危険だ。
まーとにかく、男の人はどんどん弱音を吐くべきだし、
それは、その人「個人の弱音」というよりも、長い歴史の中で積もりに積もった男性諸氏、「男たるもの」という重圧の影で、決して表に出すことのできなかった
「集合的な弱音」が、その人を介して出てきている、と考えた方がいいと思う。
前の時代が終わって、ナウのニュー時代への移行のためには、おっさん方はどんどん「真の苦痛」を吐き出して、とにかく持ち越すべきではない。
てな訳で、行ったら店主はくたびれていた。
わたしはサチさんにお見せしようと、マリアグリッド一式を持参していたから、期せずして彼の手で展開されることになった。
そのお店は最近移転したばかりで、この移転先は、そういえば、「何をやっても長続きしない場所」(鎌倉あるある)だった。
彼もそのことは知っていて、少し気にしていたようだ。
なんだ、因縁案件かよ。今やそういう場所に恐れおののく必要はない。マリアグリッドという解決策があるからだ。
ということで、なんだ、因縁さんの方からマリアグリッドを欲していたのかな、とも思った。
よきかなよきかな。
おまけに店主の趣味で、神聖幾何学の本屋、人体図の本などもあるわけで、なんだー、すでに一式揃ってるんじゃん!と思ったらおかしくなった。
サチさんといえば、
一番最初にクレイのマリアさまが誕生した時(昨年の2月?すごい昔のように思うけど)、わざわざメッセージを送ってくれ、そこには
「おめでとう!かおりさん、やりましたね!そのマリアさまは多くの人に必要とされますよ。大切な授かりものですよ」と書いてくださっていた。
けれど、その時わたしは、彼女の言ってるその意味がわからなかった。
「は、、はぁ、、、(ポカ〜ン)」
かなりのタイムラグを経て「ナウ、その真価も、言葉の意味もわかるようになりました」と伝えたら、
「そうでしょう?それがどこから来ているものか、パッとわかったの」。
何れにせよ、ありがたいことだ。
そして、今この時代、いろんなところで、いろんなものが、「人の手によって」生み出されている、という話をした。
それは突然降りてくる絵かもしれないし、楽器かもしれない、あるいは歌かもしれないし、食べるものかもしれない。
着るものや装飾品だってそうだ。
「何か特別な力を持ったのもの」が、人を介して地上に降ろされている。
そしてもう、誰かが特別ということではなく、「町内に一人、そういう人がいる」という感じになって、
そんな人たちに横のつながりがあって、誰かのところにつながれば、糸を手繰るようにして安寧や解決がもたらされる、、、という風になるんじゃないのかしら、
というようなことを話した。
そうなったらいいし、そうなると思う。
そのために、わたしたちは、少なくともそれぞれの根源的な苦痛の源を認識することが大事だと強く思う。
自分の基礎振動数は、自分で上げる以外にないからね。
何事も我慢の上に成り立つ時代はおしまい。おしまいにするのは、誰かではなく、自分たち。
ほなまた!