「世間一般」が「自分より優れた人たちの集まり」だと考える場合、
世間一般に「認められる」ことがすなわち勝利になるのかな。
だから認められなかったとか、受け入れられなかったりした場合は、敗北ってことになる。
自分が自信を持って(か、自信はなくても、少なくとも一生懸命取り組んで)したことが、世間一般からの「評価」を得られないと
それは屈辱ということになるのかなあ。
で、「世間一般並み」であることはすなわち「安心」。
大した得もしないけど、大損もない、みたいなことなのかなー。
あーーー、そうか。
それでチャレンジすることは、「世間一般」からの称賛を待つ行為、ということになるのかな。
屈辱を味わいたくないから、チャレンジもしない、とかの恐怖心理はそこかー。
自分が極端に劣っていると思っている人は、
だから、チャレンジの話自体が苦痛になる。
「どうせ成功できない」が常にある。
成功すること、うまくいく予測がつくことしかやらない、っていう人もいる。
勝算主義といま名づけた。
これも屈辱回避の心理かな。
認められる、とか、受け入れてもらう、とか、
そーゆー「成功観」、やっぱ、どうにもよくわからないなあ。
世間一般ていうのは、いわば「マス」のこと。「大衆」のこと。
要するにひとたびマスクしましょうって言われたらマスクを手放さないような人たちのことだよね、ってわたしは思ってる。
世の中にはいろんな人がいて、多数派が「良い存在」だとは思いにくいんだよなあ。
で、多数派に対して、「対抗しよう」とか、ギャフンと言わせたろとか、
なんというか、その人たちがこっちに靡いてきたら自分の勝利だとか、
あんまりそういうのもよくわからないなあ。
自分に競争心一般が「欠損」しているしているせいもあるけど、
いちいち勝つとか負けとか以外に深層心理の軸がない人の思考は本当にわからない。
というか、話がすでにつまらない。
それより、自分と、俺1号と俺2号、時々出てくる俺3号とのせめぎ合い。
「対象者」はいない。
人のために生きないってそういうことだと思うけどなー。
あーー、そうか。
「得たい喜び」の種類が違うのかな。
そうなんだろうな。
あー、そういうことなんだろうな。
で、それもまた優劣でしか見れない人がいて、ホントめんどくさいよね。
違うんだよっつーの。ただの種類だろって話。
次元の低いところで頑張る人生の人もいれば、高いところで頑張る人もいる。
で、低次元だから悪いとか高次元だから良いとか、そんなことでもないだろうに。
しかし低いところの人は高いところを見ることができない。
イモムシは、木の上から世界を眺めることができないのと同じこと。
あー、そうか、
彼らは見てみたいと思ったのかなー。
そして変態という技を手に入れた。
なんだかすげーな。
おー、ちょっと感動した。
特に意味のない話だよ?
ほなまた