自己肯定以前に、「自分を知る」って大事なこと。
難しいのは「自分を枠に入れる」と「自分を正しく認識する」は、まるで違うこと。
自分を枠に入れてしまうこと、自分のカテゴリ付け、レッテル貼り、、、、それはすべてが不要というか、意味のないこと。
だけれど、そもそも基礎のないところにどんな家も建てられないのと同じで、
まず自分は日本家屋なのか西洋建築なのか、といったことは自分そのものの基礎認識なんじゃないかと思う。
・・・・いや、この喩えは上手くないな。
例えばあなたはハサミだったとする。
だけど紙を切るハサミなのか、布を切るハサミなのか、あるいは庭木を切るハサミなのか、はたまた鼻毛を切るハサミなのか。
大事なのは、どのハサミもハサミとしてきちっと機能することだ。
切れなくなったら錆を落としたり、刃を研いだり、油を注したり。
庭木のハサミが鼻毛バサミより優れているなどと思うバカはいない。用途が違う。
鼻毛のハサミでも糸ぐらいは切れるかもしれない。
でも鼻毛のハサミがどんなに頑張っても庭木のハサミになることはできない。逆も同じ。
ただ、鼻毛のハサミだって100均のものから数万円するものだってある。
「自分の枠を外す」ことによってあなたは100万超の、史上最高の鼻毛バサミになれるかもしれない。
けれど、どれだけ頑張っても、鼻毛バサミが高枝バサミにはなれないし、そこを目指す必要は一切ない。
それがわからなければどうしようもない。
人にはそもそも持ち場というもの、役割というものがある。
自分を最高に輝かせましょう!
と言っても、その辺の基礎認識はすごく大事だと思う。
ただの「ないものねだり」をしているから苦しいわけで、
「ない」ものは「ない」と知ること、
なくて上等!と言えることが自己肯定なんだけど、なかなかそれがわからないケースもある。
ああ、難しい。
ほなまた