今日は都内某所で「音」を作らせてもらった。
真鍮の板を丸くカットし、おでんの大根のように面取りして滑らかにし、直径わずか5センチの面積に100tを超える加重をする。
この加重の重さと、かける時間によって金属は分子を変化させ、奏でる色が変わってくる。
わたしは、初めての体験ながら、究極の音を作ってみたかった。
最小の圧と最大の圧をかけたものをそれぞれ試作して、両者の音はまるで違う。
魂の奥底に響く音と、魂を魂の世界に送る音。
両者を混在させるとさらに倍音×倍音になって、さらに響きが重なり合う。
まあ、その音色を言語で表現しようとするほど、真実からは遠くなる。
感じるか感じないかだけ。
わたしは多分に聴覚の人だと思う。
音の質というより振動、つまり響きに反応するタイプかと思う。
で、そんな響きをどう捉えたか、なんて、言語は音の前に無力なもので、
ある種のことは、言葉で説明しようとすればするほど陳腐でうるさく、バカみたいに矮小化されたものになっていく。
わたしにとって最良だと思うものは
「いちいち説明しなくても通じ合う」
という状態で、
非常にスライトリーな感覚を共有できるかできないか、がすべてのような気がしている。
それは音に限った話ではない。
もはやすべてが「振動に過ぎない」と感じているから、共鳴、あるいは共振するか、しないかだけのことで、
すれば非常に気持ちがいい、「通った」と感じることができるし、
しなければ「別に」というだけで、ほとんどどうでもいい。
例えば何ヘルツの音がナニにイイ、ナニに効く
みたいな能書きは、それはそれで大切なことだとは思うけれども、わたしにとっては比較的どうでもいい話。
状態なんて常に揺らいでいるものだから、その時に気持ちがいいか、そうでもないか、というだけのこと。
「ナニに効く音」だから、よりも「自分に響く音」が大切で、
自分はあくまでも「響き」優先でありたい。
能書きの裏打ちがあると安心する、という人は多いと思う。
でも「能書きの裏打ちがなければ安心しない」だったら、また別な話。
藤圭子の声がどうしてこんなにすごいのか、
そんなの考察すれば、ありえない倍音とか、ダイナミックレンジの広さとか、マニアックな部分でのテクニカル分析なんかいくらでも出てくるわけで、
テクニカル的にすごいから藤圭子がすごい、なんてことじゃない。
藤圭子の声がすごい!と感じるのは本当に一瞬の出来事なわけで、瞬間的に魂の奥に響くわけで、
瞬間的に魂の奥に響くからすごいわけでございます。
なんでも「すごい」ものは瞬間的なもので、能書きが計算される速度よりはるかに早く「届く」わけで、
「すごい!」と感じるその精度を、わたしはあくまでも磨いていきたい。
で、「すごい!と感じたもの」についての考察は、暇があったら後からしたい。左脳は左脳で大切だ。
でも、逆はあり得ない。
自分にとって、逆はあり得ないんだ、って、つくづく思う今日この頃。
説明過多な世の中、なんでも言葉で埋めようとする世の趨勢にあって、それが自分の生命線だと思うから。
そうでなければ、大切な何かをキャッチすることなんかできないってことを
こないだもサチさんに会って確認したし、
今日は今日で、あまりにも繊細で精巧なモノづくりの現場において再確認させてもらった。
能書きと感性では、感性の方がはるかに大切だと思っているのがわたし。
それで、同じ感性の人、同じ感度の人に出会った時の「通じる」瞬間的な喜びは、至福となるわけでございます。
極端言ったら、たとえそれで気がふれても構わない、とさえ思う。
今日試作した「音」は、もしかしたら「夢ハ夜ヒラク」で限定販売するかもしれません。
ほなまた