昨日は「日蓮巡礼」以来スッキリしてしまいまして、
お昼にサムゲタン屋さんに行ったから、夜サムゲタン作ろうと思って(たまにあるこのバカな連鎖w)骨つきモモ肉を買って帰り、
夜中に一人でコトコト煮てやることにした。
そしてわたしは猛烈に前のめりに作るとき、料理は上手い。今は前のめりになる時が、ずい〜〜〜〜〜ぶん少なくなっただけ!
やっぱナツメがあるとないとじゃ大違いな、この食べ物。骨つきであるかどうかも味を分ける。
かーーーーーーーーーーー!うまい。滋味だぜ。
オトーサンも好きだったから、母・まるちゃんに「明日持っていくよ」とLINEしたら、「明日は〇〇と出かけるわよ」と返ってきて、
ま、留守宅に行っておいてくりゃいいだけなので、さっき実家に行った。
春だなあと思うのは、梅の木の下にひっそり咲いた福寿草を見つけたとき。
誰にも言われなくとも、時期が来たら並んで顔を出してくる。
すごいなあ。
オバハンになったからなのか、こんなことで胸がいっぱいになる。
「今年も福寿草が咲いた」ということが、なんたる奇跡かなんて、それがどんなに喜びかなんて、ガキの頃にはわからない。
いや、こんなことで頬を涙がつたうようになるんだから、オバハンになるということは実に聖なることのように思えた。ザマアミロだ。
龍のような梅の木は、いつどの植木屋がやったんだか、あんまりセンスが良いとは思えない感じで養生されていたわけだが、
梅さんはそんなもの気に入らないのか、ぷっと地面にコンクリートを吐き出している。
もしかしたら去年も気づいていたかもしれないけど、今日はこれを見ても涙がこぼれた。
こんなものは、要らないんだよね、余計なお世話だ。
自分の好きに、伸びたり曲がったりしたいんだよ。
そしてこの手前に見えるごくわずかな部分だけが、地面との接地になっているわけで、それでも春が来れば生い茂り、たわわに実を灯してくれる。
そんな重さを、今年この方は支えられるのだろうか。
養生し直さなきゃいけないな、と思うと同時に、倒れたければ、倒れてもいいんだよ、という気持ちにもなった。
庭の片隅、松の下で小さな土だけを与えられた盆栽の梅は、長いこと枝も落としていない放置された存在だったのに、
揃って見事な香りを放っていた。
なんたることかと心震え、足がすくんで号泣した。
なんの手入れもしてあげなかったのに。。。。
これは隅々まで「気」が回った証じゃないか。
その辺にほっぽらかしておいたシクラメンの鉢は、冬には見事な花を咲かせた。
ありがたくて、ありがたくて、じっと地面を見つめては涙がこぼれるのだった。
なんでこんなものがあるのかさっぱりわからない、柿の木の下の石さん。
去年まではなんでもなかったけど、今やわたしはこの方たちが「石」だとは思わない。
てか、あなたたち、いったい何?どこからきたの?
しかし本当に、どうしてこんなものがいっぱいあるのか、不思議。。。。ジイさんが盆栽に使う石だと思うけど、そうなの?
♫おし〜えて おじいさん〜〜〜〜
と言えども虚し。何も返らず。
このところ、正月を過ぎてから、
母まるちゃんに、スライトリーな「変な兆候」、つまり人といるのに、際限なく自分だけ喋り倒す、
誰かが話しているのをインターセプトして自分に持っていく、という現象が気になっていて、
仕方なくどうにかグリッドをいじったりしていたのだが、
今日行ってわかったのは、「井戸の手入れ」だった。
冬の間は寒くて、アオコ?(わけわかんない藻)を取ることもしていなかったから、とどのつまりは淀んでいた。
滞っていた。
祖母がやっていたように、父がやっていたように、わたしはしゃがみこんでわけわかんない藻を綺麗にした。
先ほど、まるちゃんから連絡があり、
その反応は、「良いまるちゃん」にすっかり戻っていた。
全ては「気」のせい。
全部「気のせい」なんだよ。
なんだか今日はすべてがありがたくて、帰りの道すがら、八幡宮にまでありがたいと思った。
京都からの帰り道、八幡宮領域に入ったらケロッと頭痛いのなくなったのを思い出して
全部「気のせい」なんだよな〜としみじみ思った。
なんやかやいっても、黙って守ってもらってる。
意味なく涙が出て、すべてがありがたい。
乗ってる車ですらありがたいと思えたから、そのままスタンド行って洗車機つっこんでやった。
ごめんねごめんね、運んでくれてるのにろくに手も入れないで。
・・・・オバハン魂炸裂だぜ!
さて、今年は「盆栽元年」になるのかなあ、、、、、
ほなまた