人ひとり、生命がこの世から消えるということは、
それはやはりものすごいことで、
ものすごい仕組みが働くもので、
わたしの中では、悲しみよりも得る感動の方がはるかに大きくなっている。
人が死ぬということの裏には、ものすごい、計り知れない美しさが残されるもので、
それはやっぱり、その辺のドラマなどより数段上の、透明で純粋な、しみじみとした「美しさ」としか言えないものだ。
もしかしたらそれは、死を前に滅びてゆく肉体に代わって、「別なもの」が前に出てくるからなのじゃないか、と思う。
誰一人、ちっぽけな人なんかいない。
昨日、病気(特にガン)によって人が死ぬプロセスを、誰も語らない、と書いたのだけれど、
その理由は死のタブーの他に、付け加えておかなかればいけないことがある。
父の時もそうだったし、今回もそうだが、
このあまりにも美しい感動を経験してしまうと、
例えば医療プロセスにおいて感じた疑問や怒りなどというものが、
どうでもよくなってしまう、というか、薄れてしまう、、、というような感覚に、人はなるのではないか、ということ。
父の時は、肉親だからの感動なのかな、と冷静に思ったりもした。
しかし今回で明らかになったことは、そーゆー問題ではない、ということ。
今病室に詰めているのは、親しい友人だが、それぞれの関係性がある。
大学の同級生、彼氏、そしてわたしは元同僚だが、この一切関係がない皆がひとつのこと、つまり「美しさ」を感じていて
皆、今流す涙は悲しみではなく、美しさへの共鳴といったほうが良い。
人の本質は愛です、愛とは癒しです、などと
文字面だけで言ってもわからないわけだし、
死にゆく人間から光の物質が排出されて、その中に愛の情報が入っているみたいな、よく言われていることが本当かどうかは、
これを体験したらわかることだけれど、ほとんどの人は人が死ぬプロセスに関わらないからわかるわけがない。
実に残念なことだと思う。
実際は、そんな一行か二行で済まされるような話じゃないんだわ。
人が一人死ぬということは、全人生を賭けての、魂の煌めきといったものが、一気に共有される場なんだわ。
それはやっぱり、すさまじいものなんだよ。
どんな人だって、実は壮大なドラマを生きているわけで、
例えそれが選択の誤りだろうと、気づけなかった魂の声だろうと、
また、その結果の病気だったとしても、
だからなんなんだよ!というぐらいの、ものすごい大団円への演出だったりするんだな。
だから結論だけ言えば、
別にどう生きても良い
ということになる。
実はどう生きても良い。
単純に言うと、
魂の声に従わなければ、病気になって死ぬ。
しかし、それだって別に良い。
なんだよ別に良いんじゃねえか!!!!!!
という壮大な気づきを、わたしはもらった。
ただ、わたしのバーイは楽に生きたいから、
というより、正確に言えば余計な道を通らず真理に到達したいから、
彼女のような闘いの中に身を置かない、というだけなわけで、
自分の人生が彼女のそれより優れているなんて、これっぽっちも思わない。
勝敗にこだわった彼女だけれど、
あまりに若すぎる人生の最後に見せてくれたのは
圧倒的な勝者の姿だったように思う。
というか、人の人生に敗者なんかいない。そんなもんあり得ないんだよ。
どんな人の人生も芸術に等しい。
病気に負けた、という表現ですら、ものすごく違和感を感じてしまう。
もしかしたら、最初から、46歳で人生を閉じる、と決めたシナリオだったのかもしれない。
そして、徒手空拳、「自分のことは自分でやる」をテーマにやってみる、と決めていたのかも知れない。
だとしたら完璧すぎる完璧さで、彼女は見事にやり通した。
その中には、きらめく愛のドラマもあり、母娘の確執もあり、強固な友情もあり、経済への果敢なチャレンジもあった、
実にコンテンツリッチな、羨ましいほどのゆたかな一生だったんだなあと、今になって知らされてはしみじみ感服している。
あまりにも多くのものをもたらしてくれて、ありがとう。
若すぎる、と嘆くのも、実は違うだろう。
親より早く逝くことも、必要だからそうしたんだね。
あんた流石だよ。カッコよすぎてシビれるよ。まいったよ。
向こうでゆっくり休みなよ。
わたしは、じゃあ、どんなチャレンジをしていこうか、ちょっと考えることにするよ。