3月24日に友達がこの世から去り、昨日は内輪で集まり、遺骨をもって故郷に帰る彼女の母親と共に1日を過ごした。
まったく知らない存在同士だった我々が、ミサという一人の人間を介して、まるで旧知の仲のように瞬時に打ち解け信頼し合うという奇跡に、魂というものの成せるわざをしみじみと受け止めている。
そして彼女がもういないことは寂しいけれど、不思議と悲しくはなく、
むしろどっちかというと、残してもらった「感動」などと言う言葉があまりにみみっちく感じられる莫大な「何か凄いもの」の方がはるかに大きく、
しかもみんな口を揃えて「幸せな死に方だった」とか「あんな風に看取られたい」と羨むほどの愛に満ちた最後は、集まったわたしたちを終始笑顔にさせ、それは彼女のまぎれもない人徳というものだなーと深く感じ入る。
彼女が亡くなったのが、もう数ヶ月前のことのようにも感じる一方で、新しいレストランの情報でも見れば、「へー、ミサでも誘ってみようかな」などと、ごく普通に考えている自分に気付いたりしてハッとする。
この世は生きている人間の世界であるから、わたしたち生き残った者はとにかく生きなければいけないわけで、
しかもわたしは彼女から大きな宿題をもらった気がしていて、
これからさらに真摯な気持ちで人体とエネルギーについてきちんと、しっかりと発信していこう、
生命エネルギーのことを知ることは、「スピリチュアル」でもなんでもなく、もはや知っておくべき教養ということなのだろう、
それをわたしはきちんとやらなくては、と強く確信しているわけだが、
一方で自分のエネルギー状態というかバランスが極めておかしなことになっていて、
気力はあるけど、できない(向かえない)
という日々を過ごしている。
要するに、わたしは今、かなりの混乱状態にあるのではないか?
と今思った。
あー、そうなんだ。
そういうことなんだなー。
親しい人を亡くすことは初めてではない。
まだ20代も終わりの頃、とても親しくしてくれたお姉さんみたいな人が、やはり癌で亡くなった。
その時は知らせを聞いて、ショックで吐いたし、泣きわめいた。
今回は、自分も成長し、かつ、人が死ぬということについてはよくよく深い理解を持っているつもり。
けれど多方面であまりにも濃厚すぎる時が流れ、20クール分ぐらいのドラマを2週間で見せられたようなもので、
コンテンツ過多、みたいな状態になっている。
3月の半ばから今日までの間に、怒涛のごとく過ぎた日々と、それに伴ってわたしも精神的に刻一刻と変化した。
とてもとても、「たったひとつの結論」などに落とすことはできない。
要するにそういうことなんだなー。
自分はいつでも、それなりに冷静さを持って物事を見ている。
というより、冷静さを失うことが「できない」精神構造をしていて、それはある意味過酷だなーと思う。
思う、、、って、自分のことだけど。
わたしのバーイは複数の感情、複数の視点を同時に持つのが常だから、たぶん脳がとんでもない速度で回転していて、
最近はその速度がさらに速くなっているのを感じている。
困ったことである。
もう少し、咀嚼のスピードが遅かったらむしろ楽なのではないか、、、、、などと珍しく、なんというか、
まーなんというか。
「いつも冷静さを持っていたい」ともしかして自分で願っているのかなー
別に、そうでなくてもいいのになあ。
ちょっと自分ではわからない。
だし、わたしは今どこに立っているのか、正直よくわからない。
ま、ちょっとした混乱状態にある、ということを認識できたのは今日の収穫だと思う。
別にそれでもいいじゃないか。
それを無理におさめようとしない。
♫時はいつの日にも親切な友達♫ by ユーミン
あーー、こんな時、通常なら
ちょっとフランスにでも行っちまえば済むものを。
ことほど左様に、ままならぬ。
ほなまた