昨日は朝っぱらからプチ断捨離(この言葉嫌い)を致しまして、買ったけど履いてない靴(ないことにしていた存在たち)を荼毘に伏そうと思ったら、もらってくれる人がいて、嬉しくって3足もってってもらった。
整理が悪いせいで、サランラップとかホイルとかストック5本ぐらいあるじゃん!!!てゆーのに都度買ってる(しかもバカだから1本買えない)とかの非効率にイラっときての行動よ。
あーあーあーあー。
一人暮らししている時、わたしゃきちんと整理整頓していた。ピシッと、きちっとやっていた。
しかし誰かと暮らすようになって、そのピシッとしたい気持ちが自分を苦しめていると知ったから、一切ピシッとしなくなった。
しかし、やっぱそれってどうかと思うんだよ。
午後になり、なんだか頭痛くなってきて、そのままダウン。また「長崎前夜」の再来かと思うぐらいの調子悪さ。
なう、ようやく人間ぽさを取り戻し。
ところで掲題の件。
先ほど宇多田ヒカルちゃんのIGTVを見て思った次第。
ファンからの質問に答えるやつ。
10分ちょい過ぎぐらいから必見!
「10年前に母親を亡くし、今になって悲しさがこみ上げてきて困ってる。どうケリをつけたらいいでしょう」みたいな質問。二度と会えない人への思いをどう手放すか、というテーマだよ。
それに対するヒカルちゃんの答えが例によって秀逸で、首を縦に振り続けながら聞いてしまった。
そして自身も長いこと母親の写真を飾ることができなかったけど、数年前から飾れるようになり、今は友達がそれを見て「(圭子さまではなく)ヒカルかと思った!」とか、息子も「おばあちゃんかわいいね」と話しかけている、とか、親との関係は死後も続き、その関係性は変化していくんだよ、この悲しみ(やら色々な)感情こそが、母がプレゼントしてくれたもの、と話していて、なぜか期せずして号泣してしまったよ。
いやあ、あの子は聡明だなあ。。。。。。
聡明という言葉以外考えられない。成熟している。
こーゆーのを見ていると、ああ藤圭子は「すごく良い子育て」をしたんだな、そーゆーことなんだろうなって思える。
(死を代表とする)もう会えなくなった時の感情は、悲しみ一種じゃなく、色〜ンなものがあるよね。でもそれを一気に受け止める、一気に感じるにはあまりにも人間は脆いものだから、脳が制御するようにできている。今、あなたが悲しいのは、悲しみを受け入れる準備ができたってことじゃないかな?
と彼女は言ってた。まーとにかくIGTVを直接見て欲しいわー。
わたしが思うに、二度と会えない人と言ったら、死んでしまった肉親もそうだし、自分より早く人生を閉じた友人知人ももちろんだけど、別れてしまった恋人なんかだってそれに相当するんじゃないかな。
要するに、こっちには思いがあるけど、もうそれを伝えることができない相手、という広義的な意味でね。
その思いを無理やり閉じてしまうと、その後の新しい人間関係や、自分自身に対しても支障をきたすことになるよ、、、という話。
いつもスッキリしていることは理想ではあるけれど、人みな一足飛びにそんな状態を作り出せるなんてことはなく、自分の中に「そんな感情」があることを「原因・他責」なしにまず認めることをしないと先には進まないよね。でもなかなかこれが厄介で、自分の中にその感情があるのは「●●●(過去の出来事、もしくは人の影響)のせいで、、、」と考えがちなんだけど、ただただ「その感情」があることだけを認める。
でもまた感情だけ見つめてりゃいいわけでもなく、その感情を内包しつつ、つまり「それを抱えた自分」を認識しつつ、いくつものトライアル経験をしたのちに、ふとその感情が消えていたことに気づく、、、となってたら良いよね。
それが感情さんと折り合いをつけるって話だと思う。誰かを責める気持ちがある限り、折り合いはついていないということ。
最近わたしは、美佐が死んだということを、また別な境地で捉えることができるようになってきて、みんなで形見分けした彼女の持ち物としばらくどう向き合って良いかわからない時間が過ぎたけど、今は普通に愛用していて、今この時も、彼女のTシャツを着ています。
それも、一緒に買いに行って選んだやつなんだよね。「美佐、その色似合うじゃん!」と言った自分の声が蘇り、ほんと、しばらくは袖を通すことができなかったんだよ。
長く生きて、子供をあれこれ世話し続けるのが子育てでもないだろうし、
親より早く死ぬのは親不幸、というのもまったくの嘘だと思う。
人は死ぬけど、こっちが生きている限り関係性も生きている。
そんで去っていく人は、こちらに成熟の機会をプレゼントしてくれるんだよ。
ほなまた