男性性とか女性性とかのめんどくさい話は置いといて、
人はやっぱり、愛情を注ぐ対象をもつことで自分が潤うんじゃないかなって思う。
「愛されていない」よりも「愛する者がいない」ほうが蝕まれるというか。
愛情を注ぐって、何も地上的な男女の話だけじゃなくて、例えば家族だったり、犬や猫だったり、「反応がある」生き物ならなんでも。
すごく広い範囲でのことを言っている。
毎年、この時期になるとイモ活でせわしないんだけど、物言わぬ虫たちのお世話をさせてもろてることで、自分自身に何かが満ちるのを感じる。
今日は狂ったように右往左往するイモ子たち、「もしかしてまだチビだから若い葉っぱしか食べられないのかな」と気づくまで数時間かかった。
若い葉っぱを入れたら落ち着いて、うんこ出して、ムシャムシャ食べ始めた。食べてくれたの見て安堵する。
ごめんよごめんよーーーー、わたしが鈍かったんだねーーー(涙)
女性は愛されることで満ちるのは当たり前だけど、同時に「面倒見る」とか「育む」ことでも満ちるんだよなあ。
そういう「しくみ」がなけりゃ、人類として子育てなんて不可能だろって思う。
夫婦なんかも同じなんだろうなあ。
「世話焼きすぎ」で破綻するケースもあるけど、基本的には愛情を込めて食べ物ひとつ作ることは大切なんだろう。
・・・ということを何周か廻って、いま新たに気づき始めた。
ジェンダーギャップ解消とかなんとかも、非常に大切なことではある。それは間違いない。
それに逆行するようなふうに聞こえるかも知れないけど、でも、やっぱし、そういうことなんじゃなかろうか。
「安心して食べられるものを用意する」ということは、なんつーか「人のためならず(自分に循環してくんよ)」なんじゃないのかなあ。
やだなと思うことにフォーカスしないで、何らか意味性を見つけることも人としてのスキル養成でもある。
そんで、それは何に置いても結構大事だ。
まったくなつかない黒猫、その名も「クロ」は5年間毎日ご飯を食べにくる。
生粋の野良だからミャアひとつ言わない。
それでもわたしのいる部屋の網戸をガリガリして「メシよこせ」と主張する。気に食わないエサは絶対食べない。
でも手を出すと引っ掻く。
それでもクロと我が家に何がしかの信頼関係はあって、「ここにきたらメシくれる」だけは彼女は疑っていないんだということが
なんだかいじらしく、かわいくないけどかわいいなと思うから不思議なものだ。
ペットを「買って」、なつかないから「捨ててしまう」みたいなバカがそれなりの数いるようだけど、まあ、悲しい人たちだなと思う。
「距離感の縮め方」というものを学ぶチャンスなのにね。
え、なんの話だっけ?
ほなまた