岩崎駿介さんという建築家、都市デザイナーの方がいらっしゃいます。
横浜市庁舎がある関内駅前の公園プロムナードはこの方の70年代の設計によるものでしたが、2020年を超えた今、「再開発」という名目で、まあ、、、、、要するに根こそぎひっぺがされてしまいました。
そのあとは、今ふうのカッコよさ?、今ふうの未来感?なんだか知らないけど、どーせ真の先進的からは程遠いような、普通にダサいまちづくりが成されるんでしょう。知らんけど。
この国の文化程度のあまりの高さ(笑)に、もう怒りよりも絶望しかないわけですが、
それでも、この国の人たちって面白いから、
人口激減してるっつーのに、ど田舎に道路がまた増えたり、わけわかんない区間に新幹線通ってみたりすれば「わーい!」ってなっちゃう。
人間のオツムの程度も文化程度並みなので、ま、どっちもどっち。
誰が悪いじゃない、「俺もお前もみ〜〜〜〜んなバカ」というだけの話。
だけど、なんでみんな絶望しないんでしょうか?なんで?
「正しい絶望の仕方」というもんがあるとわたしは思っていて、
現実を冷静に見て、もはやヘタな希望は全部捨てた方が良い、
一番やるべき断捨離は「ちんけな希望」だと思うねえ。
誰かが救ってくれるとか、政治が変えてくれるとかも含めて、
「希望ゼロ」からの、さてどーすんの?という思考実験から「当面の答えの方角感」を導く以外にないと思ってます。
あ、各自(つまりあなた自身)がね。
なんか「希望」って宗教に近い洗脳なんじゃないかとすら思える。
「希望なんかないじゃん」て言うと、表では「そうだよねえ」なんて言ったりするものの
「でもわたしは大丈夫」な〜んて、どっかで思いたくなるものなのかもしれない。
いや、そら「大丈夫」に決まってるけど、「大丈夫」までのプロセスが一切考えられてないっつーか、ねえ?
何が、どう大丈夫なのか?って話なんだけどねえ。
この辺の話って、「病気と医療」の話にも似てるかも知れない。
きちんと絶望してから、正しく「余生を楽しむ」か(だって、俺ら全員、生まれて以降はもれなく「余生」だよっつーの)
希望を持って、わけわかんない投薬を続けるか、
まあ、わたしの中では本当によく似た話のように見える。
この世界で最強のカミ、って言ったら、ジーザスでもなければアマテラスでもなく、地球規模で最大数の信者を誇る
ヒガミ
っていうカミだと思ってきたけど、
もしかしたら、希望も、ヒガミと同じぐらいか、それ以上の強い呪力を持ってる。
わたしは、一番必要な断捨離が「ちんけな希望」だと思ってます。
それで、冒頭あげた岩崎氏が、昨日こんな投稿をしていて、
まさに我が意を得たり、という気になったので紹介します。
絶望・・・Hopelessness…僕は最近、ある外国の方からコメントをいただきましたが、この方は言いにくいことを素直に表現しています・・・「この世の中は、これから最悪の事態がやって来ると言わざるをえない。気候変動と生物多様性の喪失は不可逆的です。もう単純に後戻りはできません。今、私たちにできることは、今いる時間と場所に出来るだけ楽しみを見出すと同時に、お互いに親切にすること、同じ考えを持つ人々とつながること、できる限り良い方向へと少しでも努力すること、そして、もう物事を好転させることができないことをよく理解することです。この状態は、あたかも死にゆく人が死ぬことはないというふりをしているようにも見えます。それでも、暗黒の中で未来への光を探すこと、これが大切です」・・・という絶望的なコメントです。しかし、残念なことに事態がここに至ってもまだ、多くの人々は何か希望を作り出す努力をするのではなく、ただ消費の中に喜びを見出し、祭日になれば郊外のショッピングセンターは人で溢れかえります。人間、何をもって喜びとするのか、それは消費するのではなく、創り出すことに喜びを見出したいものです。誰でも不安もしくは絶望など、口にしたくはないのですが事態を冷静にして厳しく見て、その結果、われわれに何が出来るかを改めて考えるため、今朝の投稿とさせていただきます。
今いる時間と場所に出来るだけ楽しみを見出すと同時に、お互いに親切にすること、同じ考えを持つ人々とつながること、
できる限り良い方向へと少しでも努力すること、そして、もう物事を好転させることができないことをよく理解すること
ほんとこれ。
根底にこの考えがない人といくら繋がっても、どっかで「不信感」が出てきます。コミュニティって言っても、大人数いればいいってもんじゃない。
事ここに至って、もーそーゆーのはうんざりじゃないですか。
こんなところに住んでてもな〜〜〜
と思っているなら、一刻も早く引っ越すべき。
田舎暮らしもいいな〜、と思うなら、今すぐ田舎に土地を探せばいい。
そしてリスタートした方がいい。
とっとと安住の地、そこに責任持ったろ、と思える地を探したほうが早い。
「自由」っていうけど、イマドキの自由は全部制限付き、許認可制です。
それに、「全自由」を与えられて、人がクリエイティブになれるかっつーと、実はそうでもない。
真っ白な画用紙に「好きな絵を描いてみて」と言われたら、喜び勇んで超大作を仕上げらるかっつーと、あなたピカソでもない限りろくなもん描けない。
武術の「型」は、いろんな動作の「制限」がある中で、「たった1点の自由」を探るところから生まれて、
そこが見つかれば、一気に突破できる(少なくとも無残にやられるということはない)という言わば「針の穴」。
自由に動いて相手を倒せるかっていうと全くそんなことはない。
つまり自由っていうのは、どこか、何かの「不自由」を引き受けたところからしか始まらないんじゃないか、
腹をくくって初めて光が見えてくるんじゃないか、って、わたしは思ってます。
自由なのは精神だけ。
だけど思考は、どこかをピボットしないとグルグルするだけ。
なんだかそんなことを考えてます。