既知外の皆さま
本日夜はこちらでお待ちしていますよ〜!
と言えて嬉しいわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
というのも、昨日1日、正確には一昨日の夕方から激烈にダウンして、この会は延期を覚悟したのよ。
あまりにひどいから、ナーコロかと思った。でも違った、昨日の夜遅く、完全復活したから。
話の発端は一昨日よ。
ある友達(Rちゃん)から、「昨日の祝詞の記事を読んだら、首が締め付けられる感覚が来て、具合悪くなった」という話が来たの。
この記事のことね。
で、その話に「えええ?」と身を乗り出し、よく聞いているうちに「何か」がわたしのほうに来たの。
「ん?なんか来たよ?」となったら、むしろRちゃんはスッキリ!(こっちに移動したからね)
要するに、ゾッとする「負の気配」、何かの「異常性ある雰囲気」、つまり「もののけ」よ。
「もののけ」ってね、単純に「オバケ」ってことじゃないの。「もの」ってね、「なんだかわからない者」の「け」ってね「気配」ってことよ。
でもその時はそれだけ。
午後になり、今晩の「奈良」の資料をやり始めたら、
ある箇所に来て、猛烈に頭痛くなったの。そして目も開けていられない。
ちょっと横になろう、と思ったらそのまま強制的に寝かされたようで、3時間が経過。ただ、熟睡じゃなくて、猛烈に悪夢を見続けた。すんごい高い岩の上から突き落とされるとか。
わたし普段、そういう系の夢ってないのよね、だからただ事ではないと思った。
だけど、それどころじゃないよ。やばいやばい、資料やらないと間に合わないじゃん!焦る!!
再度取り組もうとするも、その箇所(シート)を開けると、モーレツに具合悪くなる。
そして昨日一日、完全ダウンよ。喉が痛くなり、大汗出しまくり、寒くなり、身体痛くなり、口きけない。まるでナーコロ。
てか、ナーコロだと思ったから最近コロった友達Aちゃんに「これ、何日で去るもの?」などと聞いたのよw
しかし、ウンウン唸る中、わかった。わかったから対処のしようがあったの。
つまり、それは、奈良から来た「もののけ」なんだ、と納得した瞬間、少し和らいだの。
ナーコロだと思って速攻「麻黄湯」とか飲んだから熱くなって汗が出たと見たw 見当違いだったのね。
でね、言うわ。
具合が悪くなる「その箇所」とは「土蜘蛛」の件よ。とにかく、この件をまとめたシートに来ると、ブワーーっと来たのよ。
今晩の奈良zoomでは「建国神話」からおさらいするの。
神武天皇さんと称される(実在したんだかどうかわからないけど)人がいて、彼が中央、つまりナウの奈良に入って行く時、めちゃくちゃ人を殺したのよ。記紀ではさらっと言われてるけど。
「土蜘蛛」っていうのは、天皇軍になびかなかった、もともとそこにいた人達に対する蔑称よ。
この土蜘蛛の中には「戸畔」と称される女性酋長たちもいたの。記録されてるだけで3件の戸畔が殺されたことになってるから、実際はもっといたのかも知れないわ。
参考までに、よくまとまってる記述を見つけたから貼っておくね。
1 「戸畔」は土蜘蛛の首長だった
『紀』の東征伝では、「戸畔」を名乗る首長に率いられた先住民は、三カ所で登場する。いずれもその地のリーダーとして神武軍の
前に立ちはだかり、三者ともすべて誅伐されてしまう。
最初に出てくるのは「名草戸畔」である。皇軍は熊野に迂回する途中で、なぐさのむら名草邑(現和歌山市の名草山の辺り)で賊軍
と出会うが、そこで名草戸畔を討伐している。第二は先にみた熊野の「丹敷戸畔」である。第三は 大和の波多の「にいき新居戸畔」
である。
長髄彦を倒して大和平定に成功してからも、まだ抵抗する土着勢力が残っていた。皇軍はこれらの残存する賊軍を討伐したが、その
中に波多(現奈良県添上郡椿尾村付近)のにいき新居戸畔がいたのだ。2 大和にもいた土蜘蛛
これらの「戸畔」を名乗る先住民は、この東征伝ではどのような在地勢力として認識されていたのだろうか。彼らはやはり「土蜘蛛」
の一族とみなされていたのだ。
新城戸畔が討たれるくだりに出てくるが、そのころの大和のわに和珥 (現天理市王珥)にこせのはふり居勢祝、ながら長柄(現御所
市長柄)にいのはふり猪祝がいた。いずれも武勇をもって知られている土着の集団だったが、彼らは神武軍に帰順しなかった。それ
で神武は軍隊を派遣して誅伐させたとあるが、彼らは「みところ三処の土蜘蛛」とされている。つまり、『紀』が編纂された当時の
ヤマト王朝では、「戸畔」にひき率いられる在地勢力は、すべて土蜘蛛の一味であるとみなしていたのだ。http://inoues.net/club3/exa.html ←本当によくまとまってるから一読をお勧めします
最終的には、昨日の夜、どうにか口きけるようになったから、Aちゃんに音声をつないで、奈良の各所に順番にグリッドを展開してもらうようお願いした。
土蜘蛛で有名な葛城がキモになると思っていたんだけど、予想に反して、平城京に展開した時が一番すごかった。わたしの体が、どんどん自由度が増していった。
こっちはもう、ナンだかわからないけど、要するに奈良の負の祭りみたいになっていたようで(笑)、あっちからもこっちからも来たんだと思う。
ちなみに「蜘蛛塚」などと言って供養する碑が、奈良のあちこちにあるわよ。
・・・・ってこの数日で奈良の地理に詳しくなってしまったw 広すぎて今までわかんなかったのw
でね、こういうのって「負」でしょ。だから「悪いもの」としがちでしょ。で、悪いものは避けようとする。
だけど、わたしは、そうは思わないって言ったらちょっと違うけど、「悪い」と思ってる限りダメなんだと思うのよね。
別に、わたしに悪さしようとしているんじゃない。けど、何かを訴えたいんだろう。
わたしに過去の歴史を変えることができないぐらいわかっているでしょうから、とにかく、その人たちはそういうことを、多くの人に知って欲しいんじゃないかしら?
そう思ったから、今こうして記事を書いています。
先住民を虐殺して「新たな文明」を建てる。
例えば西洋社会ではネイティヴアメリカンという人たちが同じ憂き目に遭ったわ。オーストラリアではアボリジニが、今も同じ路線状に位置している。
・・・・・結局、今私たちが生息している「この文明」では、例外なく、どこでも同じ一つのパターンが繰り返されている。
わたしたち「生き残ったものの末裔」は、果たしてこの繰り返しをこの先も選択するのがいいとはわたしには思えない。
かといって「みんな違ってみんないい」を安っぽい解釈して叫んでりゃいいってわけでもないでしょう?
「存在としての優劣」の概念を、自分の中から消すことは、兎にも角にも今すぐやらなきゃいけないことです。
周りから「差別された」の話の前に、自分自身が、「自分が劣った存在」=弱者信念を握りしめていないか、よく考えてみて!
そして、ある意味では、そんな弱者信念を作り出す仕組みの決定版が、天皇制とも言えるわけなんだけど、それもそんなに無条件に崇拝する意味ってあるのかどうか、みんな考えたらいいと思う。
わたしは、個人的には嫌いじゃない。けど、崇拝はしないわ。
冷静に歴史を手繰ってみればわかることもあるのよ。
ま、そんな話を、今晩します。控えめに言いますけど、結構重要です。