既知外の皆さま
聞いてちょっと!!!!!!!!!!!!
今わたしは、古代史、ニギハヤヒの件を激烈に見ていて「あーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」っと目からウロコがドバドバ落ちまくリ、我が家はまるで魚屋の床状態よ!掃除が大変よ!!!!
自分の中でめちゃくちゃクソでかい線が繋がったの。そして、これはものすごく重要なことだと思うから、何のことかちゃんと書いておく。
コトの発端は、来週月曜のミゾクイ会(この回は絶対に来てよ!!!!)のテーマ「十種神宝祝詞」のキーノートを作っていて、大きな疑問にぶち当たったからなの。
当初、これはもう、この十種神宝といわれるもの(が何かはわからないが)と、その祝詞がいかに実際的にすごいか!という話と、言葉に表されている意味を読み解くことをメインにするから、資料づくりはそんなに難しくないだろう、と軽く思っていたのよ。
またしても、タカククリヒメだった。
いや、祝詞自体の素晴らしさは変わらないけど、その背景はそんなに簡単な話でもなかったのよ。
じゃ、大きな疑問とは何か、というと、この十種神宝祝詞、わたしは二箇所から取り寄せたわけだけど、
石上神宮バージョンと、物部神社バージョンでは「まったく違う」ものになっているのは一体どういうことーーーーーーーーー?って思うようになったの。
だいたい、後者からいただいた祝詞集では、開いた瞬間身体が反応するのに、前者は特に何もないってどういうこと?(これは、講座では両方をみんなにも比べてもらおうと思っている)
というのも、本当に「常識的な伝承」通りであるならば、饒速日は石上に鎮座したわけだから、しかも知ってた?石上神宮って、日本書紀において『神宮』っていう尊称がつけられているのは、伊勢と石上しかない(!)特上クラス扱いなわけだから、そちらの方が「正統も正統」なわけで。
それに、伝承からしてニギハヤヒは石上に祀られていなければおかしいはずなのに、祭神の一人にすらなっていないとはこれ如何に?
どう見ても、おかしいじゃん!
わたしがもともと出雲の出ですとか、もともと深く帰依していますとかの、肩入れしたくなるような感情的なつながりがあるならまだしも、そういうことではまったくないのになぜか号泣みたいな事件(実はその他にも「効果」と思われる事象が発生している)が起きたことも含めて、
やっぱり解せない。
それに、よくよく考えればおかしい。
物部神社は、サイトを見ただけでグワッとくるようなグッズが羅列してあるのに、石上の「授与品」には、十種神宝グッズが「ない」。
あるけどショボい、とかならまだわかる。だけど「ない」ってどういうこと?石上神宮では十種神宝祝詞を奏上しているのに、だよ?
、、、、、ま、こーゆー謎の数々が発生してしまった以上、イラッとくるから納得いく答えを求めたくなるのがりーかお総研というものよ。「謎解き体質」なの。
だって「〜〜〜と言われています」と言って「知らんけど」で逃げる話を羅列するなら立派な既知外とは言えないもんね。
何より、タイトルの通り、エネルギーは嘘をつかない。体は嘘をつかないわけだから。体が反応する・しないは、すごい大きな差異だということなの。
そんなわけで、ヒントになるような本をいくつか探してガーッと読んだ。今週だけですでに3冊読破した。(今後もさらに読むつもり)
そんな簡単には結論は出ないし、真相はわかるはずもないのかもしれないけれども、わたしとしていくつかの疑問とヒントは浮かんできた。
つまり、「石上神宮」〜「ニギハヤヒ」〜「ウマシマジ(物部氏)」〜「十種神宝」というそれぞれビッグネームな4つのポイントが、実は言われているような繋がり方をしていないのではなかろうか?ということに尽きるわけだが、
ニギハヤヒという謎の大物に関しては、やっぱしなにかしら重大な秘匿案件があるのだろうと思う。
しかし、それは闇の中だから、今そこをほじくろうという話ではないの。
で、それより、ここからわたしが気づいたことは以下の通りよ。
前回のミゾクイ会「奈良の回」にて、
日本は「今でも」強烈な呪術国家であって、大和朝廷始まって以降、「祀る」ことの基本は「祟り封じ」だということを例を挙げながらお伝えしたばかりなんだけど、その時点であくまでも「朝廷」っていうか宮家、「国家」みたいなでっかい概念でお話しさせていただきましたよね。
でね、だけど自分でそこに気づいておきながら、今日の今日まで大きなポイントを見過ごしていたんじゃないか!ってことなのよ。
というのは、あれ?もしかして、、、、
もしかしてニギハヤヒもその一例なんじゃないのか???というところにぶち当たったからなの。
というのも、やはり奈良だが、こんな神社があるのを知った。実はこっちが、ニギハヤヒを祀る本丸なのでは?という説。
あれ?これってビンゴじゃない?
(奈良)矢田坐久志玉比古神社を訪問。石上でなく本来の物部氏の氏神神社はこちら!?饒速日命の降臨伝説の残る宮居跡
見てよこの注連縄の異様さ加減。
境内地をぐるっと取り囲んでいる、まさに「結界」。要するに、この社に封じ込めていると考えるのが普通じゃないでしょうか。これが清々しきところならば、こんなことはしないでしょう?
う〜ん。。。。。。
う〜ん。。。。。。
う〜ん。。。。。。
となって、ここでひとつ強烈に気づいたのよ!!!!謎解きはともかく。
これ、国レベルから我々レベルまで、同じことなんだわ!ってこと。
国レベルでは、なにごとか謀略によって抹殺された存在の「祟り」というとおどろおどろしいワードになってしまうけれど、「祟り」っていうと、いきなり今はやりのトーイツなんとかみたいなアレ系の流れになってしまいそうな気配さえあるけど、
要するに「負の想念」ってことじゃん。
それ、我々クラスでもみ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んなに共通する「障り」のことじゃん。
我々クラスだって、先人たち(直接の祖先とは限らない)の負の想念の影響を受けていろんな災い現象が起きる、それをきちんと清浄化することで、人生が拓けていくことは、もーしつこく紹介してきたよね。
「抹殺した側」はどこかに良心の呵責がある、やましいことをしたという確信があるから神社や寺を建てて祀理、手厚くケアするわけだけど、それって要するに
「この世に強い思いを残して死んだ人」の鎮魂をきちっとやりましょう
ということだよね。
やだ、それって、、、国家規模の因縁探偵ってことじゃないの?
や、そういうことだわ!
あそっか!磐座信仰をしていた時代から、祭祀の形態が変わった(お社を建てて「祓う」スタイル)っていうのは、つまりそういうことなんだわ〜。
この時代から「怨恨」の発生と、その対処が必要になった、ってことでもあるんだよ。。。。
これまで、「祟り神とその対処」の話(例えば菅原道真が有名)を聞くと、わたしどこかで「ふん」て思ってた。
殺しといて、都合よく祀って、神ってことにして讃えて、、、、って、調子良すぎだろ!とも思ってたし、
また、そのようなひとつ「形態」(殺す→祀る)って、いわゆる「御霊信仰」というものだけど、そんなのただのまやかしなんじゃないの?最近で言えば「乃木神社」とか一体なによ!だって乃木希典って無能将軍の代名詞だったわけじゃん。。。。と考えてはイラっときてたんだけど、今になったらわかる。無能将軍で明治天皇に殉死したからこそ、神社にする必要があったってことなんだね!
それ、きわめて実際的な対処法だったんだわ。
って、、、だからもし今後あべちゃんを神社にって話が出てきたとしても、驚きもしないし特に反対もしないわ、、、、、生前好きであったかなかったかは関係なくなってしまった。
いろいろあっても、死んでしまったら、讃えて、手を合わせる以外にはないの。少なくとも、これまでの人々の因縁解除の実績から、わたし実感を持って言っています。ちょっとしんみり。
結局、わたしたちは色々な「瑣末な感情」からいかにして自分を解放するか、いかにして全体調和の方に寄せるか、も大切なの。
結局、神社の根本は「祓い」で、祓うということは、要するに鎮魂なのよ。それが結局、我々人類の「祭祀」の基本になってるんだよ。
鎮魂ということは、その存在の生前の功徳や功績を讃えて、その存在の残した念に寄り添う、ということなの。
そうすることによって、陰転じて陽となるわけで、この「因縁=負の想念」が解除されたら、その人は前途洋々というか、本来の力が発揮されるとか、思いがけない幸運に恵まれるとか、とてつもないことが実現できたりとか、そんな風に恩恵に預かったりする。
つい最近もある席で、「旦那が、廃れてしまった田舎の山の中にある先祖のお社を再建したら、それ以降、仕事がうなぎ登りな爆アゲだった」という話をある人から聞いた。
あ〜なるほどな〜と思ったばかり。結局、「情けは人の為ならず」的なものが返ってくる。それがこの世の仕組みというものだよ。
当然、それが「神」レベルの存在であれば、結局我々はどこかでその子孫、生き残った者の末裔ということなんだから、何年経とうが、この世に「念」が残っている限り、「讃えて、寄り添う」のは基本的に正しいんだと思った。
なんだかすーーーーーーーーーーーーーーーごく深いところで腑に落ちてしまい、
クニのやってることと自分のやってることが、あんまり変わらないんだわってことで、なんとも言えない、、思わず「遠い目」になってしまったわ。
ちょっとしみじみしているの。
みんなに伝わったかどうかわからないけど、クソでかい気づきだった。
そんなわけだから、
ここで話すことも、当初の想定を超えてはるかに深い話になるわ。
ちなみに「鎮魂法」っていうのは、宮中でも、この石上(物部)のもの以外、祭祀としては存在しないらしいわ。
深いわね、、、、