既知外の皆様
人生って本当に奇妙だと思った。
思えば昨年同時期に、「芥屋大門」を見るだけのために糸島に来たのよね。それも唐津からの思いつきで。
それが今年は、そんな芥屋の大地に立っている。すっごく不思議な感じがしたの。
芥屋大門。何度訪れても異様。聖地と #柱状節理 の関係は、このあと高千穂に行っても考えた。芥屋という地名は「伽耶」からきているんだよとその時言われたけど、当時ピンとこなかった。今は「そっかー!」。 pic.twitter.com/CMAtNClOQM
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海から見る #芥屋大門 #柱状節理 pic.twitter.com/CkZEc7tkVL
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この内部の六角形。写真では、現場の肌感としての異様さはないが、身体への反応は画面越しの方が強く伝わる。末端がビリビリする。#柱状節理#芥屋大門 #糸島 #福岡 #basalt pic.twitter.com/oKI3mbPTxy
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ところで糸島というのは「島」と言っても、、、なんだよ「江ノ島」とは違うじゃん!!!!(いちいち基準が小さい俺なのよ)
このエリアの中は福岡市とはまるで違う。
同じような形状のお山があちらに見えこちらに見えしていて、車で走っていても方向感覚を失う、と長年お住まいの先生が言っていた。わたしもかなり地理感に秀でた方だと思うけど、結局最後までこの島の方角感を一切把握できなかった。そんな土地は初めてだよ。
この広大なエリアの左の突端部分が「芥屋」で、ここは糸島の中でも他とはちょっと違う独特な場所だというお話をいろいろ聞いた。
「芥屋(けや)」は伽耶(かや)なんだよね、ということだが、この旅の時点で、わたしには「伽耶」というかつて朝鮮半島にあったクニのことを、いーーーーーーーーーっさい知らなかったので、戻ってきて考察を深めてるナウだけど、今ならもっと根掘り葉掘り聞けたのに、、、と思うと惜しい!
ちなみに「可也山」だって、「カヤ山」よね。
こんな風に見えるのよ。
でまあ、そういう歴史的背景は知らねども、やはり芥屋大門。ただ事ではない。
柱状節理あるところ、何がしか「聖地」であるわけで。俺の妄想では、ここは絶対、超古代世界で祭祀の現場として使われていたに違いないと見ている。
芥屋で不思議だったのは、大門側は黒い岩。対岸は白い岩肌で見事な対象だった。大門側の磯辺の黒い石を拾って持ち帰ると祟りがあると言われてるのよ、、、という話を聞いた。芥屋は糸島の中でも独特で、不思議な村だった。 pic.twitter.com/oCovhP6xf1
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大門の反対側には「立石山」がありその岩肌は白い。
で、その名の通りでかい岩がゴロンゴロンなお山だそうで、ああ、クソ暑くない時に登ってみたい。てっぺんにはこんな岩さんがいるようです。
謎の「大祖神社」。大きな祖先、ということだけど、それは誰?
芥屋大門自体を御神体としているのであろう「大祖神社」というのがあり、由緒を詳しく知りたかったが説明板は見つからなかった。 pic.twitter.com/R0WPTwhEK8
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で、戻ってきて見つけたのがこの記事。
糸島には「雷山」があり、福岡市の中心部に「天神」があり、多くの神社に「牛」がおります。大祖神社には誰かが後から作ったと思うかもしれませんが、神社に意味なく「牛」を設置することはありません。
旧約聖書でカナンの地を追われた7つの民が信仰していたのは「牛(バアル)」と「蛇(アスタルト・アスタロト)」。
これは、この糸島に古代から住む安曇一族と同じです。
先ほどお話しした住吉三神は航海の神様でギリシャ神話にも最高神ゼウス(雷)とポセイドン(海)とハデス(地獄)があらわれますが、これは、オリオン座の三つ星と関係があり、古代、航海をする海の民は、オリオン座を眺めながら海上の位置を確認したことからオリオン座が海人の守り神になったそうです。
余談ですが、牛の名前がついた神様に牛頭天皇がいらっしゃいますが、牛頭天皇(スサノオ)を祀る博多伝統の祭りが博多祇園山笠で、これまた「牛」と関係があります。かつて大祖神社は、神社の側に大日寺、善福寺の二神宮があったのですが、後宇多天皇(建治1275〜1277年)。※鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗の時代に大日寺は泊村へ、善福寺は村中に移り建治寺と改称し、嘉永7(1854)年、神殿と神庫とともに宝物と古文書も焼失したとのことです。
この消失した古文書に海人の信仰した歴史があったかもしれません。それは歴史の謎ですが、この大祖神社からは、すでに海が見えており、歩いて数分のところに海岸があり、岩そのものが古代から神と言われる「芥屋の大門」があります。この大岩を見れば、縄文時代から信仰の対象となっていたことがわかります。歴史は人の手で書きかえられますが、地名や伝承、そこに設置してあるものに数千年の文化が刻まています。
続く〜〜〜
・・・・・やだー、こんな調子で書いていったら、全部書き終わるの2年後ぐらいになりそうじゃん!