そんなわけでさー
これ見たら気づく方いるかもだけど、地名がね、「志摩」とかね「二見ヶ浦」とかね、あれここどこ?三重なの?伊勢なの?
伊勢の二見ヶ浦に昇った太陽が、伊都の二見ヶ浦に落ちるとか。たぶん夏至とか冬至とか、春分とか秋分とか、そういうタイミングに違いない。
そしてやっぱり、海女さんいる。身ひとつでヒョヒョイっと。なんだかカッケーな!
はっ!
そういえば、若い頃聞いたことあったかも知れん。海女さんていうのは朝鮮半島からやってきた文化だと。今思い出したぜ!そしてその方々が、伊勢志摩に分布したと。
検索したら、やっぱしそうだ!
からだ一つで海に潜り、魚介類や海藻を採取する女性の職業「海女」は、日本列島と済州島を中心とする韓国のみに存在し、少なくとも5000年の歴史をもつと言われています。しかし、高齢化と若い後継者不足により、海女の職に従事する人の数が年々減っており、その存続が危ぶまれるようになってきました。現在、日本では、三重県、石川県(輪島)、千葉県、静岡県をはじめとする18県に2174人(2010年 海の博物館調査)、40年前と比べて6分の1に減少しました。韓国は、済州島、釜山、泰安(テアン)などに4881人(2011年)、やはり約40年で5分の1となりました。
ちなみに、海女さんは、このあと行くことになる唐津でも謎の役割を果たす登場人物になるのよw
いろんなものを見た。
その名も「神石」」。神在神社というところ。
きれいなまあるい巨石さんだった。
人がいて初めてわかる大きさよ。。。。
糸島。神在神社の「神石」。https://t.co/V5YZU1RgzN pic.twitter.com/c0pD3zzLqn
— KAORISSIMA EARTH (@kaorissimaearth) September 2, 2022
でも残念なことに、見て、エリアはこんななの。
これ、聖域でしょ?そんな所に太陽光パネルがズラッと。。。。。
いやーーー日本全国この問題、本当に取り返しのつかないことになってるよ、、、、、、
それから櫻井大神宮というところにも連れてってもらった。
すんごい巨木があった。あまりに大きすぎて被写体としてどうなの?
ここは、「櫻井大神宮」という伊勢の内宮&外宮を一体化させたお社と、実際は「與止日女命 (よどひめのみこと)」をお祭りしてる「櫻井神社」という2本伊達になっている境内。
調べましたらば、これもまた明治になって「櫻井神社」と改称されご祭神も今の形式になったようです。昔は與止姫神社とか淀姫神社とか呼ばれていたでありましょう、おそらく。
それから気づいたんだけど、糸島では鳥居がこのように、原始の形(日本の柱に縄をかけるスタイル)のが残っているのがほとんど。この土地がいかに古いかを示している。
ではこの與止日女さんてどなたですか?というと、
神功皇后の妹という。また一説に、豊玉姫であるとも伝える[5]。『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)には、「與止姫神」のまたの名を「豊姫」「淀姫」というとある。また、同書佐嘉郡条には「世田姫」の説話が載り、同一神と見られている[2]。
だそうです。
とにかく九州ではいたるところに神功皇后さんが出没して、この方は大日本帝国のお札にもなって、我々より上の世代では必ず習った歴史上の偉人てことになっていて、我々世代では突如スターダムから落とされた気の毒な存在。
その後、このあたりの話を遅ればせながら掘っているけど、神功皇后はもしかしたら日本初の女性天皇というポストにいてたかも知れん、という説もあったり、ヒミコ説もあったりと、死後も何かとお忙しいお方。
女ながら三韓征伐のヒーローな訳だが、そもそもこのかたご自身が新羅オリジンでいらした方なんじゃないですか?だから征伐といっても、むしろ里帰り的な。同族と話をつけやすかった。そんな話がございます。
そう言われてみてば、最近思い出したんだけど、明治の「お雇い外国人」として招かれたイタリア人キョッソーネが描いたんじゃなかったかな。
ほら、こういう人。昔の師匠みたいなイタリアの先生が研究してたから覚えてるの。
明治天皇や西郷を描いたキヨッソーネ!あの写真が彼の絵だったなんて!
これそうだよ。イタリア人が古の、しかも実在したかどうかもわかんない「高貴な人物」を想像して描いたんだから、どう見ても西洋人じゃねーかこれはWWWW ってね。
とにかく、ま、こんなようなことのようです。
夫婦岩の沖合はるかの神石とは、すなわち対馬を意味していたのである。対馬は、倭人の源郷である。
古代対馬の倭人はまず、壱岐へ広がり一大国を建てた。一大国王は、おそらく壱岐から先祖の島、対馬島を望んで拝礼していただろう。(晴の日は壱岐から対馬がよく見える)その後、大陸との交易を通じて鉄器などを手に入れ壱岐・対馬は日本列島随一の先進地となり、島々の勢力を結集して博多へ進攻し倭国を建てた。これが神話の天孫降臨である。
やがて九州の王となった一大国王=倭王は、今度は、糸島海岸に立って先祖の地、対馬島の方向をはるかに望んで拝礼したことであろう。だが、糸島から対馬は直接見えない。そこで倭王は海岸の双岩を対馬に見立て拝礼するようになった。これが夫婦岩の起源であると推理できる。二つの岩の本来は、対馬の二島を象徴し、それを拝んだと考えられる。対馬はアマテル神と、倭王の先祖の島だから。「夫婦岩」は、こうして倭王の一族が拝んだのが始まりだろう。
ここで面白いのは三重県の伊勢・志摩は九州・糸島の伊勢・志摩地名を移したと思えることである。糸島には古くから伊勢も志摩も地名としてあった。さらにこの伊勢地名も元々は対馬ゆかりの地名と考えられる。
司馬遼太郎が書いているが九州にある地名はたいてい対馬にある。豊・佐賀など。対馬にある地名が九州に来ている。そして九州にある地名が本州に来ているようである。だから伊豆半島の伊豆の源も対馬。対馬に厳原があるが、厳というのはあて字で、本来はその地にあった「伊豆ヶ原」という神聖な場所である。そこから伊豆の地名がきた。
伊勢も本来は「伊(豆)の瀬」で、勢は、好字の当て字であろう。伊勢は伊豆と関係ある神聖な地名と考えられる。夫婦岩祭祀の歴史的背景には、天孫降臨という、対馬・壱岐から倭人が北部九州に上陸して倭国を建てた歴史的大事件があったと考えられる。糸島の夫婦岩の存在からもこれがうかがえる。
天孫降臨の中心勢力は壱岐であるが、壱岐の倭人の祖先の地は対馬島である。倭王一族が夫婦岩を拝すれば、当然、臣下も敬い、次第に倭人達が拝む習慣が出来たと考えられる。その後、倭王の系統は長く続いたが、白村江の敗戦後、混乱の中で近畿に移る際に、政変や直系の断絶などがあり、先祖の霊地が不明になり、やがて忘れ去られたと考えられる。
とにかく青く透明な海に、とっても素敵なお店がいくつも。
ゴミゴミした湘南エリアとは比べようもない開放感に、野菜もお魚も美味しいこと!
心残りといえば、天皇の料理番だったというシェフが開いたフレンチがあるということで、ワクワクMAXになっていたんだけど、当日予約は受け付けずで行かれなかったのが悔やまれるw
ディープすぎて、2日や3日ではとてもとてもわかったとはいえない滞在。途方も無い歴史の古さを感じた糸島でしたよ。
続く