既知外の皆さま
実は年末か、年初からか忘れたけど、かなり長らくの間、自分の中でモヤモヤモヤモヤしていた「感じ」があって、今日の今日までモヤってたんだけど、
なんか、今日はっきりした感じがあったんだよ。
これ、実はすーーーごく大きなことのようにも思えるから、上手に説明したいんだけど、それができる日がいつ来るかわからない。抽象的な話なので「なんのこっちゃ」かも知れないんだけれど、いつか洗練された表現ができるかも知れないからメモとして書いておく。
今日、わかった!と思ったのは、要するに
「体験を消費するだけの人」ってのがいるんだよ。
もちろん程度問題なんだけど、実はたいていの人がそれに陥ってるんだよ。
何かを「体験」する。
でも、深くは噛みしめない。
深いところにまで落とさないで、「はい、次!」ってなる。
これは、人が「刺激を求めている」っていう自覚なく、次から次へと情報が流れては消えていくデジタル社会、はっきり言えば「SNSの窓の中」に自覚なく住み着いてしまっていることで、深いところに落とす作業がしづらくなってるからっていうのが一つにはあると思う。
例えば先月の情報を「古い」と感じてしまうような感覚。一週間前でさえも、そうだと思う。
一方で、繰り返し表示される同じ種類の情報を、選別することなく、イメージとして自動インプリントしてしまう。
情報を得て、何かを考える、という作業は抜かして、また次の情報が入ってくる。実際、情報には「重み」があるものと全くないものがあるわけなんだけれど、全部がほとんど均一化されてものすごいスピードで入ってくる。
人間の正常な処理速度を超えたレベルで、情報はただ、人の視聴覚を「通過」するだけ。
人から、反芻したり熟考したりする機能が、我々の意思とは別なところで、どんどん失われていく。
そんな基本機能が失われた状態がベースにあって、
それでもなおかつ、「体験」だけを求める人がいる。めちゃくちゃ、いる。
体験が消費活動になっている。
この「体験」ていわば「お試し」みたいなもので、どこまでいっても「お試し」レベルだから、
体験ではあっても経験にはならない。
どんだけいろんなバリエーションをお試し体験したところで、深い経験として積み上がるわけではないから、学びもなく知性となることはない。
体験と経験てまったく異なるもの。
ビジュアルに例えると、サイコロステーキとか、マグロのブツ切りみたいなもので、
サイコロをどんだけ食っても、牛の姿を見たわけではないから、牛というものがどういうものだか知らない。
でも牛肉を食ったことある!牛肉好き!って言いたいだけ。下手すりゃ牛をよく知ってる、とまで言う。
そんな感じ。
、、、、、、かしら?(なんか違う気がするけど伝わったら嬉しいw)
ブツ切り型の体験消費をたくさん連ねていけば、都度新鮮な喜びには出会えるかも知れない。
けれど、さらに別なブツ切り的な喜びを求めていくことになる。
だから一つの事象に関連したことは想起できない程度の知性しか持ち得なくなっていく。しかも、そのことは無意識だから自覚することすらない。
これはこわいことだと思うけどな。
なぜなら、人間は「考える葦」とまで言ったぐらいで、人間から考える機能が失われてしまうと、それは人間と言えるのかしら。
「自分の価値観」なんていうものですら、この極度に高速化された情報量の中にいたら、本当にそれが自分の価値観なのか、あるいは意図をもってなされる価値観インプリンティグなのかすら、わからなくなってしまうわけだよ。
こないだも言ったけど、SNSもあいほんも存在しない状況を1年作ったら、今持ってるあなたの「価値観」て、変わるのか変わらないのか、シミュレーションしてみても良いと思う。
これは本当に人類として危機的なことなんじゃないかってわたしは感じてる。
メタバースについて、人は肯定的な印象(「便利!」「楽しそう!」)を持っているのかも知れないけれど、仮想空間においては、やがて1ミリも動かず、どんな自分にでもなれるわけで
そうすると、本来の自分(実態)と作り上げた自分の乖離は、どんどんどんどん進んでいく。
当たり前だけど、そうなると微細なものをキャッチする感受性なんて、今以上にさらに失われるわけだから、何をもって人間というのか。。。。。
スピの指導者的な人が、DNAの組み替えやメタバースについて言及していないなら、その人は信用できないとさえわたしは思ってる。
肉体について言及しないのなら、人間存在をどう捉えているのか、わたしにはさっぱりわからない。何をもって「統合」なのか。
ただの例なんだけど、
ある人がいて、その人はかれこれウニウニ悩んでいる。結構危機的なレベルまで行っている。
そこで友人が「だったらFacebookとかやめなよ」って忠告した。
そしたらその人は「それはできないよ!」と反発したんだって。
Facebookは、「いいね」をもらえる場。そこで何かが肯定された感じになる。そこでプチなヒーロー感を味わえる。瞬間的な喜び。
しかし、「いいね」なんて、人はよく考えて押してない。別に特にいいと思ってないけど、とりあえず反応として押してるだけ。1秒もかからずに。
そんなものに、人は自己を依存しているというか。
いいねと言われる姿だけを公開して、いいねと言われたい俺を演じて、でもその人の実情はウニウニ悩み続けてる。
で、そんな人はゴマンといる。
嘘の自己肯定とか嘘の喜びとか、本当にもうやめたほうがいい。
だけど、じゃあ、何が自分の本当の喜びなのか、それすらもわかんなくなっちゃってる人ばっかりが量産されているわけだよ。わたしたち、そこに無自覚なんだよ。
おまけに「ネガティブを考えるな」っていう洗脳までされてるから、この件誰も考えたがらない。
考えられる人はどうか考えてみてほしいんだよね。。。。