オサナイカオリノシゴト

KAORISSIMA ENERGY WORKS

吉野と修験道、その力

その後の世界を作るために


皆様、本日も無事に明けましておめでとうございます。

 

吉野での滞在が忘れられません。特にセンセーショナルな何かがあったというわけではなくて、深く重く自分の中に沁みている、、、、そんな感じです。

現地に入ればわたしという個人のルーツの一端はどうでもよく、「人類」という視点でしかものを考えられなくなった。

こんな深山幽谷、今でこそ舗装道路が走りトンネルもあるけれど、その昔は本当に人が到達することを拒むような広大な奥地。しかし4000年もの前から、そこには人が生活を営んでおり、それが現在でも続いている。それをこの目で見ていながら、それでも信じられない「こんな山奥に、いったい、、、、」という思いが押し寄せてくる。大海人皇子(天武天皇)も、後醍醐天皇も、なぜだ、なぜなんだ、なぜこの場所なんだ。答えはわからないけれど、その鍵は役行者が握っているんだろうとわたしは思った。

軽く「修験道」というけれど、行者の目指したもの、修行の上に獲得したものは、おそらく今の我々が想像し得るものの数段上をいく「技」(スキルと能力)だったのだろうということが、自分の中でより鮮明になった。

というのも、帰ってからさまざまな武道流派の超人的な技を次々と知り、つまり「人間の能力とはどこまで開発可能なのか」に関して、役行者(役小角)について語られる、いわゆる「伝説」のもろもろが、決して誇張された嘘ではないのであろうと、ほとんど腑に落ちてしまったから。まさに人間の進化の実証。

そしてそれは、人間がおそらく「死の恐怖」と対峙した先にしか得られない力だろうと思う。

そのような状況においては、人は理性を放り出して、言うなれば神に助けを乞うしかないわけで、その強い気持ち(想念)に対して神が呼応して力を授ける、そんな仕組みになっている。もちろん比喩的な表現だけれども。恐怖はできるだけ味わいたくないけれども、力は欲しい、といったようなことでは、人智を超えた何かは発動したりしないのだろう。

これに関しては、わたしなりの多少の実感があって、父が亡くなる期間の話だが、夕方からうっすら頭痛が始まり、夜中に全身の激痛で絶叫し、身の置き所なくまさにのたうち回った。まるで生きたまま茹でられるエビやカニのよう。大袈裟ではなく死ぬんだな、と思った。家人も狼狽えて、しかしどうすることもできない。死ぬのか、と思ったのでわたしはマリア様に助けを求め続けた。幸い、ある方が夜中でも応じて遠隔で対処してくれたため、わたしは地上にとどまったわけだが、早朝、病院から電話で夜中に父が危篤になり、それを脱したとのことだった。

わたしが父の魂エネルギーと同調していたため起きた現象で、生きている人間に無理やり魂を剥がそうとすると強烈な痛みが生じることを知った。

後から考えると、あれは擬似的な死であって、マリアグリッドはその後完成した。修行したくてしたわけではないが、期せずしてそういうことが起きた。ちなみにわたしは生まれも仮死だったので、今は2度目の「戻り」ということか。

険しい山に分け入っての修行では、生死と向き合わざるを得ない状況が作られるし、命を落とすことも厭わない覚悟が必要で、それを超えたものは力を授からないまでも、確実に強い精神と、その容れ物である肉体を得ることができる。

明治までは日本人の確か6人に1人は修験者だったように聞く。極めないまでも、山に入るということは男なら誰でもしていた、と言えると思う。明治政府ができ、割とすぐに修験道は禁じられた。これが意味するところを考えるのは重要かと思う。

 

 

とにかくこの訪問は、特に前のめりに計画したわけではなく、日程もある方の半ば強引な勧めによって「あ、そうなの、ハイハイ」的に決めた。そしてわたしは吉野の山々や修験について、何も知らなかった。

本当に何も知らずに出かけて、その日が新月で、宿泊する洞川温泉は修験の聖地で、村人は皆、役行者を大切にしていることを初めて知った。我々の宿は龍泉寺という大峰山脈の修験の拠点の対面にあり、なんとこの期間は花供といって全国から行者が集まり、寺の境内で巨大な護摩を焚くという。

この↓写真は借り物。こういう風に山伏が集まり、夜は煌々と炎が上がるのだろう。

そういや、前日の天河弁財天で、役行者の像を見たら、なんだかニヤニヤ笑っているように見えた。

 

 

ところで、吉野では水田というものがない。コメを作らない場所だそうだ。なぜなら平地がなく、日照時間も短いため、稲作が不可能だからだそう。

宿の女将にそう聞いて、それでは何を食べていたのだろう?それに、海からも遠いここは塩もない、、、と質問すると「ですから昔は行者さんがお米やら何やらを担いで置いていったんですよ」と返ってきて膝を打った。

修験は修行でもあるけれど、村々を巡っての情報伝達網でもあり、ヤマト運輸でもあったわけ。

もしもこれらの人々がある種の情報を元に政府に反旗をひるがえすと、どうなったか?修験禁止はそれを封じる意味もあったのかもしれないなと思った。

吉野は原生林と植林された原生林が混在している。吉野といえば「吉野杉」だが、香り高い吉野杉の樽は清酒と相性が良いらしい。優れた抗菌効果もある。江戸時代、液体は全て樽詰めされて運ばれ、保管された。便なら割れるが、杉樽なら割れることはない。江戸という都市に人が集まり、都市として肥大化する中で、建材としても優秀な吉野杉の需要はピークに達し、以降林業が盛んとなった。今は風前の灯だ。

石積みと木材のみで作られた、伝統的な日本の建築物であれば、人が去り廃墟となった後でも痕跡を残さず山に還り、環境は保全される。しかし今では地方に出向く度に、夥しい数のソーラーパネルがさらに増えていることに気づく。美しい緑の中に群生する醜悪なソーラーパネル。これが清らかだった水にどう影響するか。

我々は長年培われた知恵を捨て、考えることをやめ、体を使うことを避け、それを快適としてきたわけだが、一方でAIの進化が進んで時間の余剰が生まれても、やることがない人間も増える。

人類の営みとは、一体なんなのだろう。

簡単な答えが出ないことを、少し考えてみてもいい頃だと思う。

 

吉野の話はしばらく続けます。

「自分の壁」を破って進化したい人は個人講座へどうぞ!

Leave a reply

*
*
* (公開されません)

急に来た不調、長引く痛みや術後の回復、メンタルダウンなど即効対応します



神聖幾何学には生命の根源に関する情報が含まれています。
わたしたちの細胞は幾何学、体内はクリスタルです。
マリアグリッドは神聖幾何学とクリスタルとの組み合わせによって、あなたが本来の力を取り戻し、大いなるものと共に生きることを助けます。
毎日わずか30秒。やがて大きな変化に気づく日が来ます。


提供しているセッション


りーかお総研ビデオセミナー



本日の記事

More