皆さま、本日も明けましておめでとうございます。
先日ある人から「『関心領域』観た?本当に怖いみたい。一人で家で観るようなもんじゃないらしい。映画館で誰か大勢いるところで観るべきらしい」と言われた。
春に封切られたらしいその映画のことは、話題になったことはおろか存在すら知らなかった。調べたら鵠沼に、住宅を改造した小さなシアターがあり、そこで上映中なので友達に付き合ってもらい、行ってきた。
これが「アウシュビッツ収容所の横に暮らす人たちの話」であること以外は、予備知識なしで観た。
それで、その家はアウシュビッツの「責任者」ルドルフ・ヘスの家だと知る。「美しく静謐な映像で表現される世界は、小さなゾッとするシーンと「描かれないこと」による「怖さ、恐ろしさ」が表現されている。
要するに、みんな自分の関心領域でしか生きてないよって話。
かー!と思ったシーンいくつか
・広大な敷地を美しく整えて、温室を作り、野菜や草花を育て、飛んでくる虫を慈しむ庭の隣では、ドイツ語の怒号が響き、パンパンいう銃声と人の絶叫が聞こえ続けているけど誰も気にしない
・庭の向こうには焼却炉から炎と煙が上がり続けるが、誰も気にしない
・庭には灰が降ってくるが、土に混ぜて土壌改良する(合理性に絶句した)
・運ばれてくる「荷物」の中から綺麗な下着をテーブルに広げ、女たちが物色する(説明はないけどユダヤ人の持ち物なことぐらいわかる)
・「奥様」は荷物の中から毛皮のロングコートを自分用に取って、鏡の前でポーズをとる。ポケットに口紅が入っているのを見つけ、それで紅を引く(ユダヤ人が使ってたものじゃん)
・使用人として使っているのもユダヤ人だが、機嫌が悪いと当たり散らし「お前なんか旦那に頼んで灰にして、その辺に撒き散らしてやる」と言う
・ヘスの子供達もすでに残虐性を持っているが、ヘスの子供だから残虐というわけではなく、家族にとっては素晴らしい子供(どんな子の中にも「純真な残虐性」がある)
・虐殺を知っている近所の女の子は、夜中にリンゴや食べ物を強制労働の現場に隠してあげる(この聖人的行為のシーンは、ネガポジ暗転した色なしで描かれ、美しい世界が闇であるなら、色のないシーンが光であるといったことを示している)
・大量に処理できる新型の「焼却炉」の合理性をプレゼンしにくる業者(さすがドイツの合理性!と思ったし、すべての技術革新は戦争によって行われるという人類普遍の事実)
で、感想。
「あの時代のドイツ」について調べたことがない人には「新鮮な怖さ」となるのかもしれないが、、、、、
わたしは怖くて恐ろしいのは「あの時代の、あの思想下でのナチズムや集団洗脳されたドイツ市民の恐ろしさ」なんかではないと思った。
恐ろしいのは、わたしやあなた、すべての人間。知っていても、なかったことにできる、そういう機能を持っている人間のすべてだよと思う。だからナチにせよ何にせよ、オフィシャルに悪認定(笑)されていることや人や組織を安心して単純批判して、自分が正義だと思い込みたいすべての人を、わたしは信用しないことにしている。「その状況で、もしもあんたが現場にいたらどうしたっていうの?加担しないって言い切れるのか」って言いたくなる。多くの人は、密告者になったり、黙って指示に従うんじゃないの?
脳みそ使わず感情的な条件反射しかしないような人を、どうやったって信用できないですわたしは。
で、確かに恐ろしい「過去の出来事」だけど、これよりもっと恐ろしいことが、これから起きるかもしれないんだよねってことは、みんな聞きたくないし考えたくないし、受け入れたくないかもね。
一つの民族を地上から抹殺する思想がこの世界からなくなったと思いたいですか?大規模施設みたいな痕跡(物証)を残した時代は80年前。80年も経ったらやり方は進化します。
あと、この映画の本編前、別な映画の予告出るじゃん。それが「ガザに生きる人たち」の話で、柵に囲まれた地域で暮らす人たちにボンボン爆弾打ち込んでる現状って、80年経ったら被害者転じて今は加害者ってところが壮大なブラックジョークだと思った。またそれを誰も咎めない。無関心な人たちで世界は成立してんだよ。
最後に、
作中、ユダヤの楽譜でピアノを弾くシーンがあるのだけど、
初めて聞くその旋律は、「さくらさくら」かと思うぐらい日本の旋律だったことが印象的だった。ふーんと思った。
以上、個人の感想です。
皆さんも自分の関心領域を確認してみてください。