台風が襲ってきていますが、本日も明けましておめでとうございます。
昨日はトーハクに内藤礼のインスタレーション『生まれておいで生きておいで』を観に行きました。
前知識はゼロで何も知らず、ただ友人が行くというので、流れでわたしも行くことにしたのですが、展示入ってすぐにこれは「時空も超えたあちらの世界とこちらの世界」を表していることに気づきました。
吊るされたガラス玉や毛糸のポンポン、相当に古いと思われる土器(土偶?)の破片、人か動物かわからないが古い白骨、子宮を思わせる風船、神籬を思わせる木の枝など、あちら側から降りてくる魂たちの中を、我々行きた人間が往来する。観覧者も含めてひとつのインスタレーションとなる構成なのだと理解しました。
会場は広いトーハクの3つの部屋を利用した展示で、内藤礼の部屋と部屋の間に、日本文化(浮世絵や甲冑、刀剣、陶磁器、絵画などなど)の展示室をいくつか抜けてたどり着くという煩雑な順路となっており、それが作品に没入する気勢を削がれるようにも思いましたが、逆にそれもまた大いなる時空ーーー人が生まれ、生きて活動した査証としての、残された物品ーーーを考えさせる効果でもあったかも知れない。
最後の部屋は博物館の裏庭を望めるテラスに通じる通路のひとつを、長椅子が置かれた休憩所のようにして構成され、大勢の人が行き交い見過ごされてしまうことを敢えて狙ったように、どこにでもある2つのガラス瓶が重ねて置いてありました。
それがこちらです。
片方は中身が水で満たされており、片方はカラです。
これはすなわち、この世とあの世(こちらの世界、あちらの世界)であり、また魂の入った肉体とソウルイン前もしくは魂が離脱した肉体、あるいはまた正と誤、善と悪、陰と陽のような二元と連続性であることは、前の2つの部屋を見てきたならばなんとなくでもわかるでしょう。(ただ、本来アートは言語でこのように定義することではなく観るそれぞれが感じ取って何かを考えるもの。こうして記事にしている以上、わたしなりの解釈を書かなければ伝わらないから書いています)
ベンチで眺めながら、脳裏を抽象が湧き出るままにして過ごしていたその時、ある西洋の婦人が首をかしげ、学芸員に「これは一体なんだっていうのか、説明してくれますか?」と発した。さてどうするのかな、と観察していたら、学芸員はスラスラと、「これは生きている者と生きていない者を表しています。水は生命の象徴でもあって、循環でもあって、、、」といったようなお話しをされていましたが、彼女はそれでもわからない。「はあ、、、、」といった風情で立ち去った。
わからないんだ!
このことが、わたしにはこの展覧会で一番の衝撃でした。もしかしたらこの衝撃のために、ここにきたのかも知れない、とさえ思いました。
めんどくさいが言っておきますが、わかるから良い、わからないからダメ、といった幼稚な話をしたいわけではないです。「世の中にはいろんな感性があるからね」という安易な結論に落としたいわけでもないです。
ただ「わからないんだ!」ということが衝撃だっただけ。
それで、この日の残りをかけて「西洋人にはわからないこと」についてあれこれ思いを巡らしました。
そして、この若い友人と、夜遅くまで「生きること死ぬこと」について、資本主義から生まれたスピリチュアルでは絶対に触れないようないろんな話をし倒しました。実に楽しかった。
「生きること死ぬこと」の極みは戦争です。今年に入ってわたしは「戦争」およびそれに付随するものを、これまでよりも深く、さらに今まで知っていたことも含めての自分の中の固定メガネを外して学び直し、考えるようになりました。
なぜならわたしの仕事は、「亡くなったけど生きているもの」に対するアプローチなわけで、あの世とこの世の境はそもそもあるのかないのかと言ったら、非常にうすーーーーーーーーーい線のようなものがあるっちゃある程度としか言いようがありません。それは合ってるか間違ってるかはどうでも良くて、少なくともわたしが事実から実感していることなのです。
そしてつらつら思うわけですが、数々のクライアントの案件の中でも、最も現れ方が強烈なのが、やっぱり「戦争」による遺恨なのです。この遺恨を解消するにあたって、わたしがあまりにも戦争を知らなすぎる。観念でしか捉えきれていない。その当時の社会構造や民衆心理を鑑みての、人々の根源的な承認欲求についてもっと深いレベルに進んでいく必要があることを感じたからでもあります。
そんな中で、自分の中で特にはっきりしてきたことが、
良いも悪いも本当にない
という、言葉にしてしまうと月並み過ぎる表現でしか言えないのですが、まさに善も悪も表裏一体であり、生きることが「よく」て、死ぬことが「悪い」ことでもない、という、以前から持っている自分の観念エリアがさらに拡大されたような感を得ています。
また自死は良くないと一般的には言われますがそれだって本当にどうなんだろう?状況によってはそちらの方が正義だったりもする(じゃあ、肯定するのか!推奨するのか!みたいな幼稚なレベルではないです)。
はたして「人間存在とは何か、またその全肯定」という大きなテーマへの再取り組みのような感じです。
、、、、まあそんなわけで、ますますの「どっちでもないし、どっちでもいい」感に拍車がかかっています。
もしかしたら内藤礼さんもこの境地から世界を眺めている人なんだろうなと思いました。
ああ、話が逸れました。
この「西洋人にはわからない観念」について、最終的には腑に落ちたので、次回それを書いてみようかなと思ってます。
因縁を解消することは地上を浄化すること。小さなことでも自分にできることをしたいと思います。