現実にはない、だったら自分が作れば良い

2016年7月29日

いきなり、お年を召したソフィア・ローレン様の写真を掲げてみたが。
こんなおばさま、日本にいるだろうか。
いくら年をとっても、現役感褪せないアイコンである。
もちろん、ジャラジャラと身につけるのは当たり前。自分を常に美しく保つ。

だけど日本では、わたし好みのアクセサリーを見つけるのは相当難しい。
たいていが「小さくて地味でさみしい」。
華のあるもの、洗練されていて大人らしいもの、または大人げのあるかわいらしいものがない。
別に、貴石や貴金属やハイブランドを求めているわけではなく、大人が身につける「ちょっとしたオシャレなもの」が欲しいだけだが、要するにそれを見つけるのが難しいというわけ。

そういう状況をブーブー嘆くばかりのわたしに、突然師匠が現れた。期せずして。

ひょんなことから入ったお店に陳列された作品群が、どれもこれも素敵で、心踊る。
「すごい!素敵!」を連発するわたし。
「作れるわよ。教えてるのよ」と言われ、即答した。
「弟子入りします。すぐします」

それまで家人から「自分で作ってみたら?」と提案されても「別に」としか答えようがなかったのは、要するにこの国でハンドメイドアクセサリーと言われているものも、ほとんどわたし好みじゃないせいだと悟った。
出来の良い悪いではなく、好みの問題である。

実際に先生の手から作られた作品を見たときに、この人なら、わたしが求めるイメージをわかってくれる!と思ったし、「基本的なことを教えるから、あとはどんどん作れるわよ」と言われたので、とにかくやってみることにした。

楽しい。
それにこの先生のことが好きだ。

もともとわたしは色彩が好きだ。
色を組み合わせることが好きだ。多分、人並み外れて好きだ。
自分固有の色彩センスを愛していて、なんでも色彩の組み合わせが悪いといたたまれない。

で、アクセサリーは自分の好きな素材と好きな色彩で、好きな大きさ好きな長さに好きなものを作れるんだということに、「出会った」わけである。

だから、作るという行為が好き(手芸愛好家パターン)というよりは、デザインできるという点が好きなんだと思う。

それで、自分が良いと思うもの、自分が欲しいと思うものをまず作って、それが好きだ、欲しい、と言ってくれる人のために作って納めたい。
それはすなわち、わたしが考える「いい感じの大人の女」を増やすことにつながるし、いい感じの大人の女が増えたら、結果として「いい感じの大人の男」が増えるんじゃないか、という、超マイクロ期待を持っている。

だって女がいい感じになれば、必然的に男は嬉しい。当然のことだと思う。

いい男がいないと嘆くより、いい男を作るのもまた、女の仕事でもあると思う。

そう、女は前を向くべきだ。女の仕事は果てしない。
果てしない仕事。始まりもなければ終わりもない。
それはつまり、修道。見返りを求めず、神と対話しながら手を動かし働くこと。
人生とは、だから、つまり修道なのである。人はすべて修道士。

ここに坂ノ下修道院の哲学がある。

現実にはない、だったら自分が作れば良い。

それはミラノ在住時、素敵なおばさまから叩き込まれた教えでもある。
「うなぎの白焼きが食べたい、、、」と嘆くわたしに
「あなた、だったら自分で作りなさい」と。
そして、思いもよらなかったおいなりさんを作ってくれ、
「どうしたの?(どうやって手に入れたのこの油揚げ、の意味)」と聞くと、
「作ったのよ!(豆腐を)油で揚げるから油揚げっていうのよ!」と言い放った。
あ、そっか、とわたしは思った。
世の中は、以外と単純である。

あ、
なぜ日本にはわたし好みのアクセサリーが売られていないか、
なぜ日本では華やかで明るいより地味でさみしいものを選択する(のが美徳だと思われている)のかの話はまた今度。

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