今日は神についてよく考えた

今日は代々木警察署まで「出頭」して、無事に財布を回収しました。

どんな方が拾って届け出てくれたのか聞いたけど、その方は名前は残さず「すべて持ち主に返してあげてください」とのことで、謝礼はおろか鳩サブレーすら送ることもできないのだけど、でも、わたしでも今までそうしてきたしなー。

せめても聞き出せたのが、拾得した住所で、それはやっぱりモスク(東京ジャーミィ)だった。

人の善良さってなんだろうなぁ、どこからくるものなのかなあ、などとぼんやり1日考えた。

 

以前わたしはよく、神について書いていたと思う。

なんでそれを書かなくなったのかな〜、と考えた。(考えてる)

神と宗教はまったく別なものなんだけど、まあそういう話を誰にでもわかりやすく書くこと自体がめんどくさくなったというのはある。

変なスピにかぶれた人がそれぞれ訳のわからない解釈で神を捉えていることを実感して、非常に深遠なものが随分と安っぽくなってる気がして、乱暴な言い方だけどうんざりしたっていうのもある。

いや、別に定義はそれぞれ勝手にすればいいし、わたしは宣教師でも(一体なんの?🤓)ないから、どうでもいいし、わたしに言わせりゃ神と人間とは個人契約だからみなさんご自由に。

一方で、金井南龍みたいな人による「神界」、神の業界的なものの解説を読めばそれはそれで非常に納得できてしまうし、

まあ、だから語らなくなった。

しかし今日は神についてよく考えた。わたしの中で神は神としか言えない。

 

 

キリスト教というのは、基本的に「神の存在を疑っても良い」。

例えば自分に苦難が訪れるたびに、神はいるのだろうか、果たして本当なのだろうかと疑ったり否定しながらも、最後の最後に神の姿を観る、、、、というような「道」が修道かな。

遠藤周作の『沈黙』にはそれが描かれてるように思う。

 

こないだ行ったモスクにはかなり立派なそれなりの厚みある手引書が無料で置かれていて、少しもらってきた。

イスラムについて、「そもそもユダヤ教じゃん」という点以外、わたしはほとんどよくわかってない。

 

イスラムには「原罪」の概念がないそうだ。てことは、またイエスの贖罪もないってことだ。

これだけ読んだ限りではそっちの方が理に適ってるように思える。いちばん平和な宗教と言われる所以まではまだわからない。

 

 

一方で神はまた、いろんなところで利用されてきた。

神というの名の下に信仰が作られて、思想が作られて、正義が作られて悪が作られた。

主な利用法が「国家」の形成で、あたかも戦争は国家によってなされてきたかのように見せかけられてきた。

現場で戦いに突き進む者を支えるのは信仰だが、戦争を企画する者たちは別な計算に忙しい。

神のポストに天皇を置いたのが明治以降の日本で、単なる祖霊信仰だった国がほぼ一神教に近く作られた。

満州国を作ったのは石原莞爾という天才軍師だが、彼も宮沢賢治と同じで法華経の熱烈な信徒だった。

宮沢賢治はイーハトーブという理想郷を自身のバーチャル空間に作ったが、石原莞爾は目に見える理想郷として満州国を作った。

彼にとっては本当に五族共栄の理想郷建設を目指していたが、東条英機と関東軍にとってそれは単なる口実に過ぎず、石原は立場を失うわけだが、彼が指揮をとっていたらあるいは日本の行く末は違ったのかも知れないと想像させるものがある。

そんな東條も神である天皇をかばって処刑台に消えた。

色々と考えるとすべてが物悲しい。みんな正義があるだけに。

 

神とは厄介なものだと思う。神自身はどう考えてるんだろうか。

黙ってその立場をAIに明け渡すのか、AIの中に宿る気か、それとも怒ってすべて滅ぼすのか。

正直わたしはどっちでもいい。ただただ興味深い。

せっかちだから、早く見たいとさえ思う。

 

 

って、それより「つながる身体」をつくりましょう(笑)

経堂でお待ちしてます。

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