モノは意識から生まれる。この世界は意識がすべて
モノは最初から物質なわけじゃない。
ゼロからモノが生まれるのだ。人の意識がモノを作るんだ。この世界は意識がすべて。
・・・・10年以上前、初めてそんなことを聞いて、、、、サリーちゃんみたくテクマクマヤコンと言えば空中にモノが現れるとでも?ハァ、どうやって納得したらいいのかわからなかった。
すぐには納得いかない場合、「納得いかない箱」に入れておく。そこには結構な量たまってる。
折に触れて箱から出して光にかざしたりなんかしているうちに、「ハッ」と思うことがあるんだよ。
でも今は、意識からモノが生まれるってめちゃめちゃ納得している。「こんなものがあったらいいな」って、人が意識を向けなければ、モノは生まれない。当たり前のこと。
今日、プンタレッラというイタリアでよく食べた野菜(いわゆるチコリの一種)を収穫した。はじめてのこと。

向こうにいた頃は、季節の野菜、そんなに珍しいものじゃなかった。日本で春といえばふきのとう、みたいなもんかな。今年、初めて自分で種まいて作った。うまくできた。
種まいた→ できた
簡単だった。種さえ蒔きゃ勝手にできるんだから簡単だよ。
なんだ、簡単じゃん!
・・・・・・と思ったんだけれど、ちょっと待って、昔は「自分で作る」なんて意識はなかったよ。
だからこれも「意識」からモノが生まれる、のひとつの例でもあるかもね。
今でこそ、プンタレッラなんて作ってる農家けっこうあるかも。一般的ではないにせよ。
鎌倉にはレンバイっていう市場があって、作り手が生産物を並べてる。昔からあるシステムだけど、なんか知らんけど今はメディアのせいで有名になってる。
イタリア料理屋のシェフなんかが、生産者に変わった野菜をお願いして作らせたりしてるから、それで「鎌倉野菜」とか言って有名なんだけど、や、それ本質的に「京野菜」みたいな原産地の話じゃねーからw ってわたしはちょっと、なんちゅうか本中華。
でもある時そこでプンタレッラ売られているのを見て、懐かしくて感激して買ったことがある。
・・・・・でもわたしの求める味じゃなかったんだよ。
これはわたしが食べてたプンタレッラじゃない!ってなって、以降ズーーッと買わないでいた。
今では信じられないことだけど、ミラノから戻った時、向こうでは普通に手に入っていたもんが、日本では全然見つからないことに愕然として、わたし泣いたりしてた。
当時の日本は豊かであらゆる海外産のモノが溢れまくり、銀座にはフェラーリがバンバン通っているにも関わらず、オーソドックスなトルテリーニひとつ満足に食べれないのか!と、紀伊国屋行って、明治屋行って、成城石井行って、どこにもなかった日には歩きながら泣いた。
ま、今思えば単なるホームシックなんだけど、帰国してジャパンに順応するにはそれなりに時間かかったんだなあ、、、、、とか、
さっきプンタレッラを刻みながらしみじみ思い出したりしてた(笑)
ミラノにいるときはいるときで、うなぎの白焼きが食べたいとか、油揚げを味噌汁に入れたいとか、「ない」ことにフォーカスされた時の不満たるや凄かった。
たまに手料理を振る舞ってくれるミラノのお母さんみたいな人がいて、「なかったら作ればいいのよ!」と鋭い刃物のようにピシャッと言われたことは、その後もわたしの財産になってる。
昔の自分の未熟さたるや笑える。
笑えるけど、でも、当時はそれが本気の不満だったんだからいいと思う。30そこらだったんだから許してあげようw
しかしこの歳になって、ようやく「ない」をカウントして過ごすことのアホさ加減を知った。
ないもんはない。
あるもんはあるんだよ。
ないものをあるかのように見せたり、あるものをないかのようにふるまったり、そんなのはフェイク人生。
そして、「ない」ことがそんなに嫌なら、つくればいいんだよ。
食べ物でも、スキルでも、お金でも、パートナーでも。
つくればいいじゃん。
たぶん簡単だよ。


