追悼 草間彌生さま

ハードディスクに保存してある草間彌生先生のドキュメンタリー2本、夕方から連続して、あらためて観て胸いっぱいになった。

強い人だ。本当に強い人。

子供の頃から迫り来る希死観念と共に生き、精神病院を「自宅」に、仕事場に通って休むことなく描き続けた。

ドキュメンタリーでは何度も「自殺したくなっている」と言う彼女が映し出されているから、わたしには想像もつかない頻度で「それ」はってくるのだろう。

しかしキャンバスに向かえば、本人さえもどこからやってくるのかと驚く力がみなぎり、何も決めずに動かす筆はいつの間にか壮大な宇宙となって完成している。

無数のドットや細かいウニウニ線を描いている時は「無」で、その時は死の恐怖は消えてなくなる。

そのようにして生み出された創造物はどれも、圧倒的なエネルギーを放ち、観るわたしたちを打ち負かしてしまう。

創造の源は「死に向かう希望」であって、描くことは「生きること」であって、生み出されたものには「強い生命力」が宿る。

それが、草間先生を唯一無二の独特な芸術家にしているんじゃないかな、とわたしは観ている。

2000年以降の「ブレイクぶり」は凄まじく、それまでは、わたしの知る限りでは、もの好きには知られていた、いわば「アングラ」の芸術家で、特に日本のマスコミは例によってキワモノ的扱いだったと記憶しているが、彼女はそれに関して恨み言を言う代わりに

「自分が世界で一番素晴らしい芸術家」

「死んだ後も圧倒的に素晴らしい芸術家と評価され続けたい」

「(自分の作品が)ほんとうに素敵」

「(自分は)天才的!」

とずっと言い続ける姿があまりにもカッコよくて、本人おっしゃる通り素敵で、いつでもグッときてしまう。

そこには謙譲の美徳のような嘘は入る余地がない。

純粋だ。どこか可愛らしくもある。それが大好きな理由のひとつだ。

そんなわけだから「死ぬまで描き続ける」は大袈裟な自己ブランディングではなく、

実際に描いていなければ自ら死んでしまうという究極的な「生き様」。

わたしたちは、例えばヴァン・ゴッホの生涯について、お話として知りはしたけれども、そして想像して心寄せることもできたけれども、それがどんなものだったか見たことはない。

草間先生の場合、(スクリーンを通してとはいえ)観て、わかる、という同時代性。

今後、純粋芸術は死ぬ(人工知能によって)とわたしは考えているから、人類最後の芸術家の生き様ーーー狂気と常人の境目のような、まさにエッジのところから生み出されるものを見ることができたのは自分にとって幸せなことだった。

・・・・・・と書いてみたけれども、

違うわ。

これからも純粋芸術はたくさん出てくるはず。ただ、知られないだけ、だろう。

だから生き様をこのように見ることはやっぱり難しい。

敢えて言うけれど、わたしは狂人の中にある種の崇高さを感じ、凡人の中にある悪質さを嫌う人間だ。

晩年の膨大な作品群はもはや、芸術による「主義主張」を超えて、どこからかやってくる純粋な何かを現したもので、

一切のよどみがない鮮烈なカラーで埋め尽くされた、「一見能天気なエネルギー」だけれど、「不穏な何か」がめちゃくちゃに明るい色彩の中に敷き詰められている。

また、創作としては彼女の生み出す詩や文章、作品タイトルなどはもっと好きだ。なぜか涙が出てしまう。

そこに、「綺麗事で飾られた薄っぺらい平和」ではないものを感じて、たぶんそれがいちばん、わたしの心を掴むんだろうな、、、と思う。

生と死は同じ出どころで、希望と恐怖も同じところから出ているんだから。

「自分が死んだらあの世への道は桜吹雪で彩られている」とおっしゃっていた草間先生、

ほんとうにありがとうございました。

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