知らず知らず「賢く生きよう」としてない?
●ブルース・スプリングスティーン、トランプ米大統領とICEを非難するプロテスト・ソングの新曲公開
立て続けにこの2本の記事が流れてきて、「ああ、流石だな、筋金入りだな」って思ったの。
わたしの中に小さなさざ波が起きた。
すごく正確に伝えたいんだけど、わたしは別にプロテストすることを賞賛しているわけじゃないの。
また、その主張が左派だか右派だかも、はっきり言ってどうでもいいの。
そうじゃなくて、長年「自由」を叫んで、かつその叫びでお金を稼いできた人たちの本領というか、王道というか、「当然今それ主張するよね」ってのをきちんとやる姿勢。それを流石だなって思うんだよね。
ブルースもスージーも、もう黙ってたっていいお年頃。そして今の音楽トレンドは自由を叫ぶ曲なんか流行らない。だからもしかしたらダサいかもしれない。社会に対して影響を与えることはできないかもしれない。それでも、この人たちは声を上げるんだ、っていう。
例えば、ずっと原発再稼働反対と声を張り上げてたくせに、選挙のためには180度の反転を平気で言っちゃうどこかの国のなんとかいう党の人たちとか、
あるいは選挙の前にはいいこと掲げて、選挙終わったら二度とそれを口にしないとか、
それって処世術としては賢いんだろう。
でもそんな人間を信用することなんかできない。
だから賢く生きようとすること自体が、賢くないというわけだ。
しかしところで、わたしたちは「賢く生きよう」としてこなかったのか?って考えたら、前述の通りさざ波が立ったんだよね。
わたしたちっていうより、「わたしは」だな、この場合。
正直今のヨソの国で起きてること、いやいや全世界で起きてることはめっちゃくちゃで、公正さなんか求めようもないようになっちゃった。
耳を疑うニュースばっかり目にして、わたしたちはもう何も感じなくなってしまった。
少なくともわたしはそう。
誰かが暗殺されました。ああそうですか。
誰かがもっともらしいこと主張してます。ああそうですか。
いつの間にかこんな法案が通されていました。ああそうですか。
これは報道されてこれは報道されません。ああそうですか。
そんな感じ。
だけど本当は、公正さ(フェアネス)が社会の中心にきちんと据えられている世界を望んでいる。
また誰かの苦しみや悲しみに、そっと寄り添える慈愛を持つ人間たちで構成される世界を望んでいる。
本当は強く強く望んでいる。
それなのに。
そんな無理ゲーに付き合ってないで、そそくさとこのクソ世界からは遠ざかる。自分だけは乱されないように生きようって、多分、みんななってる。
で、それは無意識の「賢さ」追求だったりする。
それは、2020年、つまりナーコロ以降、加速度を増した。
2026年の今は、かなりの細分化がされたそれぞれの宇宙に、それぞれが暮らしている。
平和に生き延びるために、我々は何かを鈍化させた。仕方がないことだったと思うし、それでよかったとも思う。思うんだけれども、このもどかしさは何だろう。
繰り返すけど、わたしは「活動家」みたいな人は苦手だし、社会正義のためにプロテストの声を上げようなんて思わないタイプだ。
むしろ主義主張を叫べば叫ぶほど、まんまと世界をドツボに落とすだろうと思っている。
けれどこのままいけば人類としての連帯ってどうなるの。
自分の中にさざ波を感じながら、大変化の荒波が去るのを待つしかないのか。今後のことは生き延びた者に任せれば良いだけなのか?
(・・・・・って、正確に伝えたいと思いながらも、ああ全く正確に伝えられない悲しさよ)
と愕然としているなうだけど、ああ、別にそれでいいんだ。
絶対に読むべき本として以前紹介した「まだ、死んでいない」。
死んでいないのはわたしたちの「言葉」なんだ。天才ではない自分が、自分の中にあるモヤモヤをできるだけ自分の言葉で吐き出そうとしているんだからこれでいいんだ。
別に万人を納得させる美しい結びに導くために、文章を書いているわけではないんだ。
美しい結びを求めるのは「賢く」ありたいと思うからで、賢くありたいがために、本心でもない結びを無理やりつけて、人は文章を閉めようとする。
しかし自分は人の賢さに共感する人間ではないんだから、この消化不良なままでよしとするよ。
とにかく、言いたかったのは「賢く生きよう」とすること自体が既に賢さからは遠ざかるってことだった。
無意識だから、余計タチが悪い。ちゃんと意識することにしよっと。


