赤と生命
先日ヴァレンティーノ・ガラヴァーニがこの世を去った。
思うに、フランスのサンローラン、イタリアのヴァレンティーノ、この二人が「エレガンス」というものの基礎を作りまた同時に完成させた。
有名デザイナーは他にもたくさんいるけれど、どれもこの二人の基礎の上に何かを加味したり除いたりしただけで、ベースにして完璧というのはこの二人をおいていないのではなかろうか。
そしてこんにち「エレガンス」も「モード」も地に落ちてボロボロになり、ましてや社交界が存在しない東アジアではなおさら、ファッションはただの衰退産業になった。
そして今となっては、きらびやかなイメージで漠然と捉えていた社交界というものが、血脈を中心とした社会とそこに群がる者たちで構成される、まあひとつの魔境、巣窟みたいなもんだったというように理解されつつもあるだろう。
ただ、本当に素敵だった。
わたしが初めてヨーロッパに行ったのは80年代も終わる頃で、わたしは当時の豊かな日本の能天気な学生として、ジーンズにTシャツ、リーボックのスニーカーみたいな格好で各都市を闊歩したものだったが、
ローマに行ってヴァレンティーノのブティックの前で釘付けになったあの時のことをまじまじと思い出した。
あまりにもエレガントだった。完璧だった。それはウィンドウに飾られたプレタポルテ(既製服)でも、本当に別格だったんだ。それがオートクチュールとなれば、どれほど圧倒的なんだろうと想像したらため息が出た。
それは自分には遠い世界、純粋な憧れだった。
帰国して、やはりおしゃれに関心を持つ、別ルートでヨーロッパを回った友達と、
「何が素敵だった?」
「ヴァレンティーノ!」
「やっぱり!わたしも!」
っていう会話をしたことまで、いま、鮮明に思い出してきた。
ヴィヴィッドだったのはネットなんかない当時のわたしたちの感性で、現場に行って一次情報に触れることは、今思えば、その後の自分にとって貴重で決定的な体験だったんだろう。
サンローランは「黒」だが、ヴァレンティーノは「赤」だった。

「(社交界の)パーティで、みんなが黒のドレスを着ている。そこに赤を纏って行けば、それだけで視線はあなたに集中する」と言ったのは有名な話で、
確かに注目されてなんぼ、見せてなんぼ、見られてなんぼというイタリア魂みたいなものを感じるけれど、今ではそれも「ルッキズム」とかなんとかの、得体の知れない気持ち悪い正義の前に霞んでいる。
生命力を表す赤は着る人を選ぶから、「ヴァレンティーノの赤」を着こなせるだけのエネルギーを持つ人も、昔はたくさん居たんだよなあ、とも思う。
みんなに似合うわけではないものがあったっていいし、
いくら好きで「着てみたい」でも、着て似合うかどうかは別な話で、似合ってなければそれはおかしな格好だし、
どんなに主義主張の終を張り上げたところで、「素敵か、素敵じゃないか」は厳然と存在しているとわたしは思うけれど、
「存在しているものを存在していないかのようにしたほうがいい」のなら、人の美意識はどこへ行くんだろう。
いやどこにも行かない。
消えてなくなるだけ。
・・・ま、そんなことを考えた。
しかし彼はいいことを言っていた。

「流行は消えても、スタイルは残る」。
スタイルとはもちろん体型のことではなくて「あり方」のことだろう。
そんなことを考える今のわたしは、赤いドレスより、黒いジャケットより、牛糞のほうが大切になってしまったわけだけど(笑)
たまにはきちんとした装いを考えることは大切なんだよなあ、、、って思う。
ただ、サンローランもヴァレンティーノも、考えてみればここ100年以内の話で、モードというものはこの100年で爛熟し、役割を終えたのかも知れないね。
でも人の生命力と情熱だけは、永遠に輝きを失わないでほしいとどこかで願っている。
それすらも無くなりそうなこの時代に。
最近、何かと昔のことをよく思い出すようになっている。
人生を振り返る季節なんだろう。

