ラビリンスとテンプル騎士団とルッカという町
今日も一日雨だから調べもんをするのにいいね。
昨日のつづきを書くよ。
いやーーーーーー、これね。わたしの個人的なアレだけど、本当に然るべきタイミングで然るべきもんを受け取った気がしてるわ。

というのも昔から「テンプル騎士団」にはめちゃくちゃ関心があった。昔っていうのは高校か大学ぐらいの時じゃないかしら。
わたしにとっては、フリーメイソンよりテンプル騎士団への関心の方が先だったんだわ。当時テンプル騎士団まわりの本とか、見つかる限り買ったってことを今思い出してんの。
今だって、ここ、手元に3冊ぐらいあるよw ところが、買うは買うけどほとんどきちんと読んでないの。
その現象ってりーかお総研あるあるだけど、入手はするけど核心部分に触れない/触れたくないっていう潜在意識みたいなもんがわたし固有のメカニズムとしてあるんだってことはこの10年ぐらいでわかったの。
その最たる例がメディチ家の話なんだけど、長くなるから今はどうでもいいわね。
で、ルッカという町とテンプル騎士団の話に戻るね。
Via Francigena(フランチジェナ街道)ってのがあるの。ローマまで続く昔の巡礼道のひとつだよ。
っても、ローマより先があって、最終的にはプーリアの港から船に乗って聖地エルサレムに着くっていう段取りだよ。
Francigenaというだけあって、言うなれば「フランスルート」みたいな意味かな。
こんなルート。

カンタベリー(イングランド)→ フランスはパリとか一切通らないで一直線に突っ切って、ジューネーヴからイタリア入りしてピアチェンツァからのアドリア海沿岸に出てルッカへ。そして南下してローマ、、、、って、この超直線的なルートにも驚いちゃうんだよ。
それでわたしが思うのは、これは本当に「巡礼」だったのか、カンタベリーから「何か」を運ぶための最短ルートだったのかって考えてしまうんだけど、ごめん、ちょっとマニアックな話だよね。結論はないのよ。
ただ、巡礼者だけが通るわけじゃない。アルプス越えの実用ルートっていうか、、、、商業ルートでもあったはずよ。
や、それでね、このルート、ビビったの。
前にこちらで紹介した星型要塞 Fortezza di Sarzanello このルート上にあるんだわ!

https://energyboutique.net/blogs/universo-ao-meu-redor/220411
イタリアには星型要塞がいっぱい残ってて有名なのたくさんあるんだけど、なぜかここだけ特に気になってたのよね。ルッカの友達もこんなの知らんと言ってたから相当マニアックよねw
ま、そんな話はいいわね。
でね、そんじゃ、テンプル騎士団て何よ?って話じゃん。
そもそも身分としては修道士よ。修道士って、ほんと現代のイメージで考えたら間違うからね!修道士って「ただ祈ってる坊さん」なんかじゃないからね。
それこそ、哲学から霊的な探求、土木や建築技術、医学、薬学、さらに軍事組織編成(イエズス会が得意なやつ)、、、そーゆー技術者・エンジニアの集団だからね、何もかも現代とはまるで違うからね。ってしつこく言っとくよ!
まーこういうことだよ。太字のところが大事だよ。
テンプル騎士団は、構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た「聖地エルサレムの防衛」に主要な役割を果たした。
特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。
ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は、聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
まー、この話はそれこそ現代、ナウまで続くひとつの大きなアレだけどね。
軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。第1回の十字軍は参加者自身が資金を集めていたが、全財産を売り払う者もいたために物価下落を招いたという非難があった。このために第2回以降は教会が遠征費の調達をすることになり、テンプル騎士団が資金の管理に関わるようになった。12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。危険がともなう現金輸送よりも便利であり、巡礼者から国王にいたるまで幅広く利用された。もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても、実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。巡礼者に対しては、現金を持って移動するリスクを防ぐため、自己宛為替手形(lettre de change)の発行等の銀行機関のようなサービスも行った。また現在で言う預金通帳のような書類(bon de dépôt)もテンプル騎士団の革新的発明だと言われている。
わかる?
だからさーーーーーーー
「お金」についてよーく考えることはすごく大事なんだよ。その「仕組み」ってどっから来たの?って話を理解しないとさー、
今から起きる「グレートなアレ」なんかの後ろに何が起きてるのか、理解することは絶対できないんだよ。
「秘儀(エソテリック)」も「金融」も出どころは同じじゃん!
てか、支配者層の皆さま方はずーーっとこの2つを握ってたんだってば!
てところを冷静に知っておきましょうねってことを俺はずっと言ってるんだよ。
それをいちいち善悪の眼鏡で見てるバカ、いい加減にしなよって思うよw その眼鏡はあんたが自分でかけて、勝手に憤慨してんだよw
それこそデミウルゴスによる精神支配だってばw
1187年の十字軍の惨敗も、金融業務の拡大に結びついた。軍事力のみでは聖地の回復は困難と判断したテンプル騎士団は、所領経営を開始する。所領は管区とコマンドリーに分かれており、管区はヨーロッパに10から13、西アジアに3があった。管区の下部組織にあたる所領の最小単位がコマンドリーで、修道院・聖堂・農地で形成されており農地の生産物を貨幣化した。金融業務ではイタリア商人との取引が増え、13世紀中頃にはシャンパーニュの大市を期日としていた。
このように多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランス王国の非公式な国庫といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する経済援助を行っている。1146年にはルイ7世の命により王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代まで続く事となる。
わかります?
最初に「知識(技術)」があって、次に武力(軍事)があって、最後に経済を支配したわけ。
そんで、巨万の富ができたからには、国王とかを資金バックアップする存在になったわけ。これが日本で行ったら頼朝先輩ぐらいの時代に、この仕組みが出来上がってたんだよって話。
かなり横道に逸れて説明的になっちゃったけど、まーともかく、ルッカというところは、テンプル騎士団の大きなブランチだったことは間違いないよね、ってこと。
長くなったから、また分けて書くわ。


