自分が感じていること以外は信用しない
さっきXを開けたら、最初に表示されたのがこれで

土星の北極点は巨大な渦巻き、そしてそれは六角形であること、この渦巻きの中に地球まるまる2個分すっぽり入ること、など書かれてる。
ちょうど今、インド占星術での「土星」を日々紐解いているから、わお!と思った。
この六角形の中にマカバスター✡️を見ることもできるし、我々の人生に厳しく鞭を打つ者の正体が妖しく美しいこれなのか!
ではこの画像にマリアグリッドを展開することで何か作用があるだろうか(、、、と今書きながら閃いた)。閃いたってことは、作用あるだろう、あるに決まっている。
これはもう、明日のセッションからすぐに試してみようと思う。そしたら、世紀の発見となるかもしれない。
でも、
同時に疑念が発生する。この写真は本物なのだろうか、これが本当に土星の姿なのだろうか。
実際にNASAから発表されているとして、果たしてそれが本当に本当なのか、偽造されたイメージではないのか。
この世界は偽造だらけ。偽造ツールは日々進化して、ド田舎のスマホから、どんな映像も作り出すことができる。もはやわたしたちは疑いを持つことなしに受け入れることはできない。
どう考えてもおかしな「戦争」は、本当に報道の通りなのか?何が本当で何が偽造なのか。
みんながそう思っているから、あちらこちらでいろいろな「深読み説」が流布されている。どれもこれももっともらしい。
そして、もう政治系発信者のどれも見るに値しないと思っている。
もちろん今の「戦争」はただの例で、選挙にせよ、事件にせよ、またはスピリチュアルな世界の解釈にせよ、あらゆることでもっともらしい説が流布され尽くして、情報はどれひとつ正しかった試しはない。
すべては認知戦であり、人心を撹乱させるだけに過ぎない。
新聞とテレビと書籍だけが情報源ならまだよかった。同じテーマをいくつか読んで、整合性を推理していくことには価値があったかも知れない。
価値があった、というのは「頭脳を鍛える」という一点のみにおいてであって、「本当にそうなのか」はきっとどれもこれも違ったのだろう。
何にせよ「公式発表」自体がもう信じるに値しない。
というか、つまり情報を「信じる」という行為自体に、どれだけの意味があるのだろうかということを、最近よく考えている。
とはいえ自分はどこかでやっぱり聖書を信じているんだなと、
いや、聖書を信じている自分、を眺めている自分(ややこしい)をときどき発見するわけだが、
聖書こそ最初の認知戦の始まりかも知れないね、とも思う。
それでも、(偽の)救世主が現れ、人々は歓喜し彼にひれ伏すが、それは偽の王に過ぎず、彼と彼の王国が滅ぼされ、真の救世主が登場する、といったストーリーを、それを初めて知ったその日から今日まで、自分はなんとなく信じてきたように思う。
それが正しいとか正しくないとか、どうでもいい。
ただ、自分が信じていることってなんだろうと考えると、それぐらいしか思い浮かばない。
聖母マリアは「信じる」ではない。それを「知覚している」から、信じるではなく「感じている」し「知っている」。
信じるっていうのは「あるかないかわからないもの」を「ある」と思うこと。
「そうかどうかわからないもの」を「そう」だと思うこと。
違和感を感じていたものごとの化けの皮がどんどん剥がれていくのを確認する日々。
何にせよ、もう自分が感じていること以外は信用しない。
これまでもずっとそうだったけれど、あーよかった、自分の感覚がいちばん信用できるって思う日々。
最後に話を土星に戻すのだけど、
仮にあの画像が偽造で、本当の姿を映したものではないとしても、それを本当だ、と設定してグリッドを展開することで機能するのじゃないかと思う。
インド占星術での土星は西洋占星術の解釈よりもっとハードで、
「カルマの執行者」「時間の番人」「厳格な教師」とされている。
でも、「試練に耐えて正当な努力をする者には最高の報酬を与える」とあるよ。
厳しいオヤジ、あんたも少しはダラっとしなよ、と土星にテキトーさを注入するとか(笑)
まあ、それがワークしたら本当に、何かとんでもない発見なんじゃないかしら。
実験が楽しみだ。


