澁澤龍彦
フランチェスコーニからラビリンスをもらってからというもの、あれよあれよと自分の中でなにかが進んでいる。
実家にて、そういえば、、、と思い出し、自室の本棚の片隅に埋れていた澁澤龍彦を引っ張り出したら、やだ、知りたいトピックスはほとんど全部書いてある!
くだらない陰謀論でもプロパガンダでもなく、淡々とクオリティある記述が進む。あらためてさすが澁澤、博識とはこのことか!と唸らざるを得ない。


この文庫版のあとがきは昭和59年とあるわけだが、更に驚いたのは、書かれたのは更に20年前ということであるから、昭和39年!
わたしが生まれる前のこと!
秘密結社についての本格的な研究書が、日本ではほとんど出ていないので、例のごとく蛮勇をふるって、一気に書いたのがこの本である。私がこれを書いたのは、もう二十年も前のことになるが、現在でもなお、手軽に入手できる秘密結社の研究書は本屋の棚に見あたらないようである。
宗教学、民谷学、社会学、思想史、文化史、さては心理学の領域で、これほど興味ぶかい大きな課題を提供する秘密結社の研究が、なぜ日本のアカデミシアンのあいだで疎かにされているのか、いささか理解に苦しむものがある。
この私の小著は、もとより本格的、専門的な研究と呼べるようなものではなく、読み物ふうのエッセーとして書かれたものにすぎないが、それでも、秋密結社に関する綜合的な論述のほとんど見あたらない現在、この方面に興味をいだいている読者の渇望を、いくらかでも癒す効果はあろうかと、ひそかに考えている。
それを大学生ぐらいの時に読んで(・・・・字を読んでいるというだけで、何のリアリティもない!)
還暦近くなった今読んで、うおーーーーーーー!と思っているっていう事実になんともいえない感慨あり。
そして結局今でも、《秘密結社についての本格的な研究書が、日本ではほとんど出ていない》事実すらも変わっていないんだよな。
だからこの本を超えるものはないってことだ。
凄いことだ。
澁澤さん本人は、「見ててごらん、僕の本は後で価値が出るんだから」と生前夫人に言っていたわけだが、本当にその通りになったこともすごいと思う。
こういう人はもう二度と出ない。
以前も書いたが、我が母と澁澤夫人が幼なじみ(今でもオバハン仲間として超仲良い)だったことと、父が若い頃澁澤氏のファンだったことから、家も近所だし、家族ぐるみで親しく、おかげで著書はすべてあるし、夫人には本当に可愛がってもらった。
しかし高校とか大学で澁澤を読んだところで、晩年の『高丘親王』などの素晴らしい小説群はともかく、このヨーロッパの異端的な、暗黒的な、博物誌的な記述は「遠い世界のこと」であって「へ〜〜〜〜〜」と好奇心をそそられはしたものの、今考えるになーーーーーんもわかってなかった。
なーーーんもわかってないのによく読んだものだな自分、なんでそんなに読めたのかな、と別な人を見ている感じで妙に感心するけれど、
今になったら血肉になってるってことにも驚愕する。
彼が身近にいなければ、錬金術とかなんやかや、感心すら抱かず人生を終えたのか?そうなんだろうか?
そんなふうに考えると人生の謎というか、、、、変な気持ちになる。
少なくとも自分にとっての水先案内人の一人であったわけだから、これは自分の境遇に感謝せざるを得ないだろう。
ところで今日記しておきたかった本当の驚愕は、この本をペラペラめくっていて、
秘密結社への参入儀式についての記述に、こういう箇所を見つけたからで、
新プラトン派の哲学者プルタルコスが、ギリシアの密儀について述べているように、「魂は死に際して、偉大な密儀への参加を許された者が体験するのと同じ印象を体験する。しかも最初は闇の世界への当てどのない旅行であり、つらい紆余曲折があり、不安にみちた、終りのない歩みなのである。それから、試煉の終る前に恐怖はいよいよ絶頂に達する。そして戦慄、冷汗、驚愕がつづくのである。次いで不思議な光が眼前にあらわれ、人は清浄な場所、天使の声と舞の音が響きわたる平原に出る」と。
これは、父が死の床にあって、わたしに語ったこととまったく同じだと気づいたからだ。
父が最終段階に入り、緩和ケア病棟にいた時、わたしはほとんど毎日を父と病室で過ごした。
その際、彼は死ぬというプロセスについていろいろと詳細を語ってくれたわけだが(信じられないことだが、本当に奇跡的な密度の濃い日々だった。今でも信じられない)、
「あちらの世界に行く」ことがどれほど難しいのか、行ける!と思うけれども扉が閉ざされる。その時の絶望感といったらこれ以上ないものだと言っていた。
それは数回起きたというから、たぶん三度目には扉が開いたのだと思う。
それがまさに「秘儀参入」で、どんな結社も「3度断られる」が形式上ある(禅宗の僧堂も確か同じ)のは、死の疑似体験なわけだ。
あ、そうか!
と閃いたところで、翌日オペラ『魔笛』を観に行ったわけだが、
やっぱり「あ、そうか!」と思った。
課せられる試練というのはすべて「恐怖」、それもとりわけ「死の恐怖」を克服せよ、ということ。
つまり「一旦死ね」ということ。
この世界の仕組みとして、ホモ・サピエンスの特性として、我々は常に恐怖に支配されるようできているわけだが、本能として死への恐怖が何より強い。
そして「死ぬこと以外はかすり傷」であるならば、「一旦死んで生まれ変われ!生きてるうちに!」。
要するにそういうことを言ってるんだな、と思った。
恐れを手放せというけど、普通の人間にとってそれは並大抵のことではない。
けれど恐れは抱きつつも、敢えて飛び込んでみる。
それで本当に人生を生き得るってこと。
別に結社への参入儀式じゃなくても、生きてるうちにどん底を味わったり、試練続きの人生もある。
それでふて腐るとか、自己憐憫とか、他責に終始してるうちは試練は続くけれども、落ちるところまで落ちたら、苦しみ尽きたら、ある日突然光明が見えたりする。
だから逆説的には、試練の多い境遇は恵まれてるってこと。
生き抜くことが、秘儀参入。
「何かを恐れて、何もしない」では、結局アルコンとデミウルゴスのエサとして過ごす、生きた屍だってこと。


