修道日記(9)「原罪」なんかないよ。「未来創造」のために「霊操」スキルを鍛える

修道日記(8)あ、そういうことだったのか「霊性」

いろいろと新たな発見もあるんですが先走らずで、10日間で気づいたことを記す修道日記を続けます。   「用語」って厄介だよねっていう話。   「霊性」の指すと…

 

霊操って知ってます?

わたしが行ったのはイエズス会修道会。イエズス会と言えば「霊操」。それにも漠然と興味はあった。

でもカトリック教徒でもなければ「霊操」なんて言葉は聞いたことないと思います。

簡単な答えはGrokに答えさせるとして

イエズス会の創設者であるイグナチオ・デ・ロヨラ(イグナティウス・ロヨラ)によって書かれた『霊操』は、霊的な成長を目指すための体系的な黙想と祈りのプログラムで、28〜30日間の修行を基本としています。このプログラムは、参加者が神の意志を見出し、キリストに従う決意を深めることを目的としています。『霊操』には、修行者が自分の罪や過ちを振り返り、霊的進歩を可視化するための具体的な方法が含まれています。

つまり身体を鍛える「体操」、霊を鍛える「霊操」ってわけだけど、

この「霊」はエネルギー体なんかの話じゃなくて「精神」の意味なんだと「霊性」について悟ったとき((8)の記事参照)にわかった。

 

しかもわたし、「霊操」ってのはイエズス会だけがやるものだとばっかり思い込んでいたが、シスターに聞いたら

「どの修道会でもそれぞれあるわよ」

とのことで、目からウロコだった。

「へーーー。で、何をするの?十字架の道行きを追体験するの?」

「違うわよ。イエスの誕生から復活までの、聖書の場面それぞれを黙想するんだけど、例えば「誕生」であれば、その馬小屋に自分がいると想定して、そこにある干し草の感触だとか、壁の質感だとか、家畜の匂いだとか、そういうものを実際に自分がそこにいるように感じる、、、という黙想よ」

「なんだ!そゆことか!それならわたし簡単にできると思う」

「あなたは簡単だと思う。だから危ないと思う」

「!(確かに)」

危険だというのは、わたしの特性として、「その場にいるような感覚」に簡単に入ってしまうからで、そうすると「現在地(令和7年のナウ)」に戻りにくくなってしまうし、

例えば「イエスの受難」なんて考えただけでもキツい。意味不明に民衆に石投げられたり、その中にはかつてよくしてあげた人間がいたり、沿道では自分のことを母マリアや彼女マグダラなんかが見ているわけで、今ちょっと考えただけでもイヤ〜な気持ちになってくる。

さすがシスター、わたしのことをよく見抜いてる!

 

この手法は、もっと創造的なことに使えるじゃん!

でも、同時に、この手法ってつまり、「未来創造」とまったく同じじゃん!ということにも気づいた。

あたかも、その場にいるかのように、

リアルに、細かなところまで、五感で感じるまでに想像してみる。

 

例えば

わたしが「パリに行って、ギャラリーでマリアグリッドの展示をする」未来を望んでいるとする。

そうするとパリの空港に降りた時に何が見えるか、とか、空港着いて速攻喫煙所に駆け込んでいる自分。喫煙所で隣にいる人はどんな人で、どんな髪の色、目の色、どこの国の人、どんな服を着ている、どんな会話を交わす、、、みたいなところまでイメージする。

パリでは何区に宿をとって、ギャラリーはどんなところにあって、宿からギャラリーまでどんなふうにして行くのか。タクシー乗るのか歩くのか、その時どんな服を自分は着ているのか、目に入るものはどんなのがあるのか、角のカフェにいる人たちの会話の声、やかましいパトカーのサイレン、ギャラリーに来る人はどんな人たちで、どんな質問をされるのか、彼らはどんな反応をするのか、香水の匂いはどんなか、、、、

超具体的で、リアルで、隅々まで。

あまりにリアルに一連のイメージがでたなら、もう行ったも同然なので、実際は「別に行かなくてもいい」ぐらいまでの心境になっているw

 

 

・・・・・そんなふうに、「細かく」想定して、場面に没入するためのトレーニングとして「霊操」って使えるんじゃないか。

そっちの方が創造的でいいじゃないか。

そんなことを考えました。

 

 

実際のイグナチオの「霊操」

で、本だけはずいぶん前に買って持っていたけど、例によって1ページも読むどころか開かずにいたわけだが、

 

今、なんとなく開いてみて、

「うへぇ」となった。

 

 

最初の最初から「罪」について、だもん。まあ、対象が修道士だからそれでいいのかもしれないが、わたしはやだね!

やだねったら、やだね!

キリスト教の何が嫌いって「原罪」の考え。

人は生まれながらにして罪人である

って、はぁ?どんな呪いだよ!

生まれたての赤ちゃん見て「はい、罪人の誕生!」なんて思えるかっツーの。

→ ただし、これにはちょっとりーかお総研として仮説があって、

もし、「罪」の代わりに「菌」だったらどうだろうか、とは考える。

生まれながらに持ってくる業のようなもの。イコール「菌」、イコール「因縁」だとするならば、

イエスが「無菌」「無因縁」、ついでに聖母マリアに使われる「無原罪」も、まあ因縁(原罪)を引っ張って来なかったのね!っていう解釈では成立する。

 

次に嫌いなのが「罪の贖い」の考え。

贖いって、ほんとは、身代わり、身代金みたいな意味。

「十字架のイエス」をいつまでもシンボルにしやがって、人間に罪の意識を刷り込む装置だとしか思えないし、イエスはそんな姿を後世に晒してほしいなんて言ったのか?

考えると腹立ってくる。

→ しかしこの件も、「東方教会(正教)ではそうではない。東方教会では復活のイエスのイコンを掲げる」と神父様が教えてくれた。

それならいいよ、それなら。

 

宮台真司曰く、「キリスト教とはまったく不完全なもので、それゆえ我々は思考停止に陥らなくて済む」。

これは秀逸な意見だと思うんだよね。わたしも、同様に考えるもん。

 

 

わたしには絶対に受け入れられない、西洋の考え方

でもね。

絶対ムリ!

っていうのは、「地上の生物は全て人間のために作られた」っていう、この考え。

ムリ。

受け入れられない、この傲慢さ。

 

ま、これはキリスト教というより西洋思想って話だけど。いや、西洋思想の根本がキリスト教か。

 

こういう考えがベースにあるから、「人間ではない」とされていたアフリカの人たちを「買い付けて」「売り飛ばす」奴隷貿易みたいなもんが可能だったんだよ。

そして、「優生がく」だって、結局は同じところから発生しているわけじゃん。

 

てな訳で、「自然と共存する」をベースにしてきた我々の思想と西洋思想が、同じであるわけないじゃん!

今さら「持続可能な、、、」とか、はぁ?って思うよ。

また、「輪廻転生」の考えをキリスト教が採用しない(できない)のは、奴隷を売りさばくアンタ、来世は売りさばかれる奴隷になるよ!って言っちゃったら、教会にお金集まらないからでしょ

って、わたしの心が叫んでおります。

しかし、その叫びは、キリスト教では「罪」であります。

 

・・・・・そんなわけで、イエスは好きだけど、わたしは教会が好きではないのです。

 

 

>>>続く

 

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