物事すべて変化する
2016年8月17日
今日はジュエリーとかファッションなど外側の話ではなくて、生き方とか内側の話。
最近思うのは、全ては流れの中にあって、固定されたものなど何ひとつないということ。
思うというより、そう感じているわけだが。
「流れ」はどんどん早くなって、加速度的に早くなっていると感じる。
でもその流れは目に見えないから、どれだけの激流なのか、感じない人は感じないだろう。そして津波のように呑まれていくかもしれない。
でもその流れに呑まれないように頑張るとか、必死で船を漕ぐとか、そんなことではまるでない。
ただわたしたちは流れの中にあるということ。
ただ、不自然さや無理な力が入っているとうまくいかないか、悪くすると呑まれてしまう。濁流はそこまで迫ってきているが目には見えない。
物事すべて変化する。
変化しているのは物事なのか、あるいは物事の背後にある事情や状況なのか、またはそれを捉えている自分なのか。
いや、どれもすべてなんだと思う。
人間関係なども同じ。
誰かと仲良くなりたいと思って仲良くするとか、その人によく思われたいと思って振る舞うとか、そんなことはもうワークしなくなってきているように感じる。
そこにも無理や不自然さがある限り、うまくはいかないだろう。
うまくいかないというのは、信頼関係や友情を築いたりはできないってこと。
かつては近しくしていた間柄でも、もはや機能しない関係になっているってことも、たくさんあると思う。
この先ますます、そういうことが起きてくるだろう。
すべて変化しているから当たり前で、そのこと自体を悲しんだり、嘆いたりする必要はなく、ただ変化しているということを受け止めるに過ぎない。
肌のターンオーバーと同じで、周期が来たら古いものは剥がれ落ち、新しい細胞が育っていく。
そんなような感覚。
だけど、どんなに変化し続けても、変わらない関係性というものは確実にあると思う。
でもそれは「変わらない関係性」を求めてしがみついていたらやはりダメで、流れに任せて、変化するに任せておいても、自然に残るものがある、ということ。
しかし関係性ではなく、永遠に変わらないものといったら「愛」だけで、だから我が修道院の標語にも
LOVE IS FOREVER
を入れている。マリア様の指令で。
自分にとって必要がないもの(こと)は、その役割を終えたということで、自分の手から離れていく。
過去においてはそれが有意義だったわけだから、そのことに感謝して、それでよい。
また必要になるかもしれないし、ならないかもしれない。
それも、手放す時点でこの後必要になりそうか、ならなそうかを考える必要すらない。
人は後ろを向きながら前に進むことはなかなか難しい。
というより、実際かなり危険なので、やめたほうがいい。
イタリアでよく、前から来る人がうっかりしてたりぼーっとしててぶつかりそうになると
Guarda dove vai!
と強めに言ったりするけれど、「自分の歩く方向見とけよ!」みたいな感じのニュアンスだが、まあ、進むほうに顔を向けてないと危ない(し、迷惑だよ)って話。
わたし自身は、今後もしかしたら、交友関係は変わってくるかもしれないなと直感している。
それによって、これまで未知だった人たちと出会い、別な視野を広げるかもしれない。
広がらないかもしれない。
いまの時点でそれはどちらでも良い。
流れにすべて委ねる。
だから流れとは神かもしれない。
今後の自分は何を体験するのだろうと考えると、とにかく楽しみでたまらない。
「来た球を強く打つ」みたいな感覚でいる。野球選手か!
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