自分を愛するように隣人を愛しなよって話

んーーーーーーー

やっぱり何をどう考えても、自分を愛するように隣人を愛するとか、汝の敵を愛するとか、大切なことは結局それしかないんじゃないの?

やっぱイエスはいいこと言ってるよ。

どこをどう旅しても、何をどうヨンでも、やっぱり戻ってくる場所って感じで、わたしはそういう着地になるなあ。

こないだ友達と、ある人物の話題が出て、「どうにもダメだ。一旦ヤダとなったら、もう絶対ダメだ」って言う。ヤダ、絶対ダメな理由も聞いた。

まーわかる。でもわたしはその人物について、アカンな、ダメだなと思うところはあるけれど、いいところも知ってるし、思考のパターンもわかるから、付き合い方とか距離感がわかったよ。

わたしはみんながそれぞれ幸せだったらいいなと思ってる、もうつき合わないにしても、幸せなんだったらよかったじゃん、と思ってる、という話をしたら

「そんな風に思えないなあ」と言う。

それはそれで全然いいじゃん。

誰かを嫌ってもいいし、赦さなくてもいい。

でもさー、そんなクソみたいなヤツらも、自分の一部であるんだよ。

人を悪く言ってはいけないとか、赦しましょうとか、そんな学級会とか道徳の時間みたいなノリじゃないんだよな。

誰かを赦せないっていうのは、自分の中に赦せない自分の要素があるからで、それはなんだろう?って考えればいいだけで。

特に日本人はパーフェクションというか、完璧を求める気質もあって、自分まだまだだって思いがちなんだよ。

それは悪いことじゃないし、向上心とか達成意欲に繋がるエンジンなんだったら、むしろ美徳ではあるよ。

でも、「完璧じゃないから完璧にやろうと心がけている自分」がいるとして、

「完璧ではない誰か」に憎悪の気持ちを向けるのならちょっと違うかもしれないね。

赦すっていうのは、赦そうと思って赦せるわけじゃないんだわ。「癒し」と一緒で、「癒されたくて癒される」なんてないんだよ。

それから「嫌な目にあうのは、自分の中にそんな要素があるからだ」みたいな言い方する人もいるけど、

そういう、なんつーのかなー、イソップ童話みたいな?教訓垂れみたいな?

そういうのもわたしは好きじゃないんだよな。やっぱ学級会っぽいんだよ。気持ち悪いんだよ。

ただ、やっぱし自分のことを無条件に愛するってことが大事で、

てかそれ以外に大切なことはなくて、

自分はこれができるからOKなんだ、とか、これだけやってる、頑張ってる自分だからまあかろうじて受け入れられる、とか

あるいはいくら稼いでいるから自信持てるとか、家族に愛されてるからとか、友達が多いからとか

そんな「〜〜〜だから、自分はOK」みたいなのは全部違うんだよな。

自信とかどうでもいいじゃん。そんなもんいらないじゃん。

自分には自分の生まれついた仕様があって、それでこの人生やってけよっていう指令なんだから、ハイそうですかって話で、それでいいんだよな。

それでいいっていうか、それでしかないんだからっていうか。

わたしを見なよ、こんなにしょーーーーーーーーもないけど、わたしは自分を嫌いだったことは一度もないんだよ。

だって、嫌う理由がある〜?

それにやっぱり、バックグラウンドはよく知らなくても堂々としている人が、わたしは好きだよ。

自分のことを無条件に愛せないんだったら、隣人も敵も愛せるわけないじゃん。

愛だの平和だの戦争反対だのって叫ぶ前に、まず自分を徹底的に愛しなよ。

まーそれが「神の愛」だよ。

まずはそこから、なんじゃないのかな。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA