吉本ばななの中に自分がいた
吉本ばなな氏の家族について書かれたnoteを読んで、今、放心状態だ。

https://note.com/d_f/n/nc4a6a48a6fd8
狂ってしまった姉の治療費を捻出するために家族の内幕を赤裸々に、
と言っても文字に起こして説明可能なことなんて、実際に起きたことの1/100程度にしか満たないだろうことは、自分も日々駄文を書く中で実感しているので察することができる。
それでも稀有な一家の光景。多分世の中はこのようなことを簡単に「壮絶な」と形容するだろう。だが、人が「壮絶な」と簡単に言う時、その人は「自分とは関係のないこと」「縁のない世界」と心の中で線を引いている。もし自分に何がしかの類似性、情緒的関連性を感じる場合、「壮絶」と言い切っておしまいにはできないはずだ。
しかしそれで良い。多くの人にとって、ばなな一家のような光景が「うんうん、あるある」なわけがないし、むしろそうであってはならないのだ。
ともかくばなな氏は、「特殊な壮絶さ」を生き抜いてきたサバイバーだが、現在の状態はあまりよろしくなさそうだ。
何が驚いたって、姉氏の異常さではない。
冒頭から語られる母親像に言葉を失った。
これは、誰の話をしているんだろう?とさえ思った。
あまりにも我が母に似ていてゾッとした。
同時に、わたしの母のような人は世界に2人といない、とわたしはずーっと思い込んできたこと、
あのような母、またはあのような境遇に暮らした者の心理を、自分以外と共有できるはずがない。できなくて当たり前だと、わたしは思ってきた。もちろん無意識に。
ばなな氏の筆は、その幻想を軽々とぶっ壊した。
具体的には氏の本文を購入して読んでいただくとして、
実際の暴力はないが、言葉の暴力が止むことはなく、わたしの欠点を憎しみとともに言い続ける
わたしに起きる楽しいこと、嬉しいことをすべて潰す
学校に行っている間にわたしの大切なものを突然捨ててしまう
ヨソ様にいい顔をするためなら異常なほど全力を尽くすが、ヨソ様がいなくなった後の反動で強烈な機嫌の悪さをこちらに向ける
笑ったのは、ミラノの写真を父は細かく見てくれるが母は興味を示さない、それどころか、、、というくだり。
そして当たり前だが、良いところもたくさんあって、普段は陽気なのだ。
一体なんなの?分身の術かなんかなの?
類似点は枚挙に遑がないが、周囲の反応というここも似ている
そして必ずこう言う人が出てくる。「そんなの甘い、育ちがいいくせに、恵まれていたくせに、金持ちのくせに、愛されて育ったお嬢さまのくせに」
必ずだ。八方塞がりになって誰か年長者に吐露すれば、必ず、そのようなセリフが、判で押したように返ってきてぶちのめされた。
誰にも「どうすればいいか」について適切なことを言われたことはなかった。が、ある時ひとりの人物が見抜いてくれた。←話が延々と展開しそうだからこの件はここでやめておく。
そしてそのような反応しかしない人々に、ある種「知能の限界」が人間にはあるのだろうと悟ったし、
おかげで、早くから「大人は判ってくれない」(by フランソワ・トリュフォー)と思っていたし、今だって自分のことは自分以外には理解されないと思っている。
もっとも、ある時点で「理解されること」なんて、わりとどうでもいいことになったわけだが。
家にお金がなかった、欲しいものが与えられなかった、暴力を受けた、母が男にだらしがなかった、父に愛人がいた、国籍で差別された、、、
そんなような「わかりやすい」境遇以外にも地獄はある。
話を戻すと、
こんな境遇は自分にしかなかったわけではない、ということは、わたしにとって救いでも共感でもなんでもない。
ただ「え!そうなんだ!」という驚きのみであるが、この驚きもこうして書いている間に薄れてきた。
それより自分の中に立ち上がったものは、「パターン」に対する興味である。
ばなな氏の母とうちの母があまりにも似通っている。
ばなな氏の筆力が寸分違わず、「そう!それ!!!」を描いている。
完全なコピー、まるで鋳型から出てきたようなそれは「パターン」だ。そこに言葉を失ってしまう。
念のために記しておくと、バナナ母の方が「上」だ。我が母はそこまでじゃない、それはなかった、という部分もある。だが、そういう比較の話でもない。
ただ「現れる現象」として、この類似性はなんなんだろう。
そしてゴキブリ1匹見つけたら、家には100匹いると思えの喩えが本当なら、世の中にこの「パターン」の人物がどのくらいいるのだろう?
そしてこのパターン下で育ったタイプは不幸自慢にならないことが、ばなな氏とわたしというたった2件のサンプル(笑)からわかったので、わたしはデータを集めてみたいと瞬時に思った。
そう、わたしは現象より構造に興味を持つタイプの人間になった。
不思議なもので、
サイトをリニューアルしたら、母親のことを纏めて書いておこうという気があった。
あったのだが、過ぎてしまったこと、自分が乗り越えた、と感じていることの多くは、記憶の中で鮮明さを欠くようになってしまった。
辛いから蓋をしているとか、話したくないとかの類ではない。
なんでかな?と考えるが、強いて言えば、自分にとってあまり重要さを持たなくなっているのかも。
しかしこれも一種の昭和の記録だから、記しておきたい気持ちはやはりある。困ったな、と感じているところに、吉本ばなな氏登場だ。
また、先日ジョーティシュのあるデータにあまりにも驚いたので後で詳細を書こうと思っていたわけだが、
MK(土星)
母親カルマ。
土星MKは
母との関係が人生の修行になりやすい。
必ずしも悪い意味ではない。
ただ
距離感
責任
我慢がテーマになりやすい。
この短い情報の中にすべて詰まっている。
わたしにとって母親が「土星(サターン)」だったのか!という、フニオチぶりとしてはこれ以上ないシンプルなデータに、ただただ驚いた。
土星とは、忍耐、試練、制限、苦悩などを表すもので、また「時間」でもあり、時間を通した成熟が示唆される。
悪意あるいじめ役の顔をしているが、課題をきちんとクリアしたらご褒美も与えられる。
ちなみに父についても「そう、それ!」がはっきり出ていた。
・・・・これ以上続けると、話が完全に「星」の方に行ってしまうので、ここでやめておく。
母や父、家族のテーマも、自分にとっては単なる親子関係の話、トラウマ処理ではなく、
そこから血筋とは、土地や歴史の因縁、といった際限ない広がりで構造を読み解いていくことに繋がったわけで、
自分の体験を通して「安心とは何か」「受容とは何か」「人はどう成熟するのか」を徹底的に考えさせてくれる、教材としてはこの上ないものだった。今の自分はそのように捉えるようになっている。
現在は、老いた母を見ていてやはり思うところがたくさんあるのだけれど、それも後日書いてみたい。
ただ、やっぱり「パターン」を考えると、人間存在とはいったい何なんだろう、という究極的なところに行ってしまう。
「プログラミングによって制作された何か」と考えた方がよっぽど合点が行くのだ。
そして、そのパターンを変えるためにプログラミング自体を変えようとしているのが人間とデジタルの接続だと考えると「あー、そうか」としか思えない部分も自分にはある。良い悪いの論点ではない。
また話がスライドしてしまうので、この話もここでやめる。
吉本ばなな氏に関して、文壇デビュー時からの記憶があるが、実は一冊も読んだことがない。
語弊を承知で言う。なぜかと言えば「顔が嫌い」だったからだ。美醜の話ではない。
文章冒頭で
虐待されてきた人には、虐待されてきた人の顔がひとめでわかる。
ひなのさんもそうだったし、大瀧冬佳さんもそうだ。大瀧さんは全てを乗り越え、踊りの才能を開花させ、今は自由に生きている。
でも、その顔にはなにか弱いものが刻まれている。それは私も同じだ。
宇多田ヒカルさんもある意味ではきっとそうだろう。
とあるが、そういうことなのかな、とも思った。
「虐待」という強い言葉に抵抗を感じるが、顔から「何か」をわたしは感じる。彼女の顔から感じた「何か」がわたしは好きではなかったし、興味を惹かれるものでもなかった。
ただ、何かの本のまえがき的なもの、、、記憶不明瞭だが、確か、「ホ・オポノポノ」的な本をむかーし誰かが貸してくれたことがあって、あまり興味なく読んだまえがきが吉本ばななによるものだった。
そこには、
幼い頃、あまりにも情緒過多で、庭の花が枯れたしまっただけで涙を流すような感性の細やかさを持った子供だったが、あるときその繊細さが自分を傷つけていると感じて、すべてのことを論理的に捉えるように訓練した。結果、自分の中から情緒が消えた。そんな時期があった
といったような(曖昧だけど、エッセンスのみ)ことが書かれており、
「やだ、これはわたしじゃん。わたしも同じプロセスを通った」
と思ったことを今、思い出した。
それも「パターン」だとしたら?
と、今、考えている。
ともかく、これだけは言える。
よく生き抜いた。
わたしも、ばなな氏も。
そして、なんにせよ、今日までヨレずに、正気を保ったまま生きてきたすべての人たちに、盛大な祝杯を奢りたい。


