ハラタツノリ。引退した選手を打席に立たせても無駄
やーこれは、誰かに理解と共感を求める話では全くないんだけど。
やっぱりどっかに行ってしまった、俺の中のハラタツノリ。
はっきり言って、1打席が限界だった。
昔のこと、自分が通ってきた道を記しておこうとは常々思っていたものの、やっぱりプライオリティが上がらないことも同時に認識していて、だから今回のばなな氏の件はいい起爆剤になるかと淡い期待を持ったが無駄だった。
実際、この記事を書いている時点で
ほぼ、タツノリは球場を去ろうとしていたし、バットの振り方さえ忘れているような感じではあった。
言いたいことはあるけれど、やっぱタツノリを借りてきて語らせることは無理。
彼は引退した。
もはや監督でもない。
しかし待てよ。
解説者ぐらいなら務まるのか?
そーだすでに解説者だった。
いやはや、自分の中で、本当に喜怒哀楽の「怒哀」率が極端に少なくなっている現実は変わらない。
おもしろいもんだね、感情システムって。
ただ、それってわたしの中で絶対に受け入れないものや、絶対に賛同できないものが変わったわけじゃない。
それは不変で、自分という人間の骨格ではある。
嫌いなこと、自動的に蔑みの対象となることは変わらない。
わたしの場合はそれが「人」を対象としていなくて、あくまで「こと」「事象」としてしか捉えられない。
当然、距離をとった人はいるし、もう好感を持っていない人たちもいるけれど、その人たちに怒りを持っているかといえば、ゼロだ。
その人たちがそれぞれ幸せだったらいいなって、本当に思ってる。
だいたい、彼らっていうのは、自分自身の骨格を教えてくれた教材でもあるわけで、そういう人たち、そういう事象に出くわさなければ、
人は自分が何に反応する人間なのかもわからないよね、ってこと。
まあ淡々としている。
汁なし担々麺。
感情だってシステムで、怒りの発露は自動反応みたいなもんだから、今だってイラっとくることはないわけではないけれど
怒りに飲み込まれてしまうみたいなことは、起きないなあ、、、、
恐怖もしかり。
ま、しかし。
記しておくべきだと考えていることは、解説者として淡々と書いておくべきだろう。そのスキルが必要だってことだ。
ついでに言うと、ばなな氏の件でエモーショナルな感想をポストした無数の人たちだって、3日もすればそんなことは忘れるだろう。
見ててごらん、みんなにとってはそんな話よりワールドカップの話になるよ(笑)
所詮は「人のこと」だし、類似体験でもなければ「遠い人の話」に過ぎないんだわ。
逆を言えば、
どんなに勇気を振り絞って、あなたが自分の屈辱や恥部だと思うことを告白しようと、
人は一瞬反応したって、どうせすぐに忘れてしまうんだから、別にどうってことないよって話でもあるよ。
大事に隠し持ってるより、人類の共有資産として差し出してしまった方が楽になる。
だって、体験だけが資産なんだからね。


