怒りがこみ上げて困る時は

2016年11月21日

 

先日「セルフ盛り土」という言葉を思いついた記事が、予期せずプチバズってしまい、それよりは商品記事がバズって欲しい今日この頃。(いえ、たとえ盛大にバズっても生産能力に限界がありますけど)

本日は「怒り」についてお話しします。

修道女と名乗っておりますがワタクシだって怒ることがある。

いや、ワタクシ滅多なことでは怒らない。そんなことぐらいで怒らない、っていうのが正確か。
でも直近に起きたこの事件で、ワタクシ異常事態とも言える、「三日三晩怒りの感情が消えない」を経験しました。内容については触れません。

怒りという感情の発露、それ自体は生きているから当たり前です。
怒ることそれ自体は善でも悪でもない。
ま、だいたいこの世に善も悪もない。
善悪をジャッジする必要はありません。それは本来神の仕事であって人間の仕事ではない。

よくありがちな現象として、
あなたは誰かに怒ってしまった。誰かがしたことに対して怒った、とします。
怒ることはただでさえ気分の良くないことなので、直後「自分が怒ってしまった」という負の感情を持ちます。怒ることは悪いこと、という思い込みのなせる技です。
一方で、人間は心の底では自分を正当化したい生き物なので、怒った自分を見つめることは避け、代わりに「自分を怒らせた相手が悪い」という点にのみ固執します。
その時、あなたは自分の怒りが正当なものである、と無理にでも思いたいがために、相手の非をつぶさに列挙します。そしてそれを記憶する。
それは怒ってしまった自分を責めていることと同じことです。

でも、怒りとは瞬間的な感情の現象であって、「怒った」という現象は過去のものであるはずです。
「今」目の前に怒りの対象となる人物も事柄も存在していません。
終わった感情であるにもかかわらず、上記のようなプロセスで、「相手の非」のみを思い出すので、怒りの感情をいつまでも手放すことができません。
むしろ新たに怒りをカムバックさせたい意思がある。
つまり怒りたくて怒っている、とうことに他なりません。

アホくさ。

次に「相手の非」についてですが、ここには善悪のジャッジが働いているわけです。
そんなことをした相手は「悪」だとか「間違っている」とかです。
しかし、それに固執すると、そこに何らかの事情があったのだろう、とか、思考経路とか価値基準が自分とは違うだけなのだろう、とか、考えてみりゃ「なーんだ」みたいな話であることまでは想像しようとしません。
そして怒りの感情を育ててしまうのです。

そう。
だいたいのことは

思考経路とか価値基準が自分とは違うだけのこと

であって、それ以外の要素はないはずです。

これがビジネスの場合、それを防ぐために「契約」とか「金額」などで「違うことによる損益」を両者が被らないように縛ってある、というだけのことです。
つまり「金と信用ってだけ」、に要約されます。
必要以上の怒りは本来出る幕がないということです。

で、ここまでわかっているのに、三日三晩、ワタクシは怒っていた。

異常過ぎます。

そこで、考えました。
わたし一体、何がそんなにムカつくのか、と。

そこで出てきたことは、割とシンプルでした。
ワタクシが怒っているのは、「ワタクシ個人というより、仲間とか大切にしている存在を愚弄されたと感じたから」が最大の理由で、次のポイント「担保されるべき仕事のクオリティが低い」は、「その人(その会社)の実力がその程度なんだ」と受け入れれば、まあそんなに怒る必要はない、と気がついたのです。
「社是とかには色々いいこと書いてあるけれども、実際の仕事ぶりは真逆じゃん」とか
「表面ではわかったようなふりをしていたけど、実際何もやらないじゃん」とか
「こっちから指摘しなければ、これってこのまま見過ごされたの?」とかも浮かびましたが、それはどうでもいいことかな、と思うのです。
なぜなら、それらは「そう思われても別にいい」という、その人(会社)の価値基準であって、「それじゃまずいだろ?」というのは、こちらの価値基準だからです。

要するに価値基準が違うだけのことなので、よくあることですし、怒ったところでどうにもなりません。

そう考えると、わたしの怒りの最大ポイントだった
「仲間とか大切にしている存在を愚弄する」ことすら、その人(会社)にとっては、それが問題だとは考えていないというだけのことでしょうし、その人の仲間とか大切にしている存在が愚弄されてもどうってことないのかもしれません。もしかしたら大切にしている仲間なんかは持ったこともないし不要と考えているのかもしれないし。
だとすれば、それも価値基準に由来することなので、別に怒るような話ではありません。

な〜んだ!

ということで、もう怒りはどっかに去っています。

怒りポイントを見きわめることで、自分の思い込みや、逆に自分の価値基準をはっきりさせることができます。

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ところでワタクシの上司マリア様は、ワタクシに怒ることを禁じてはいません。
でも怒りそうになった時、ワタクシいちいち相談することにしています。
必要なら、怒っても良い。
怒りを出さなければ自分がその感情にやられてしまうと思うなら、出しても良い。ただし、後でそれを無条件に見なさい、と言っています。
さすがです。

そして、なんとこのタイミングで彼女は、「聖テレーズ」という使者をワタクシに送り込んできました。

リジューの聖テレーズ

というのもパリに買い付けに行った師匠に「マリア様のビンテージグッズ」を頼んだはずが、買ってきてくれたものは「聖テレーズ」だったという、かなり笑える話なのですが、聖テレーズについて検索したら今の自分に必要なフレーズが書かれていました。

修道生活においても、人の欠点をゆるすこと、他人に惜しみ無く愛を与えること、人に譲ること、誤解されても相手を責めないこと、批判されても甘んじて受けること、苦手な相手のためにも愛をもって祈ること

さすがです。
「ですよねー」としか言いようがありません。赦すって、そういうことです。
忘れないために、早速ネックレスにしました。聖テレーズは右から3番目のお方です。

毎度毎度マリア様の仕事ぶりにはほれぼれします。

怒りがこみ上げる方のために、「聖テレーズ」グッズを製作するのもアリかしら。ご希望の方はご相談ください。

皆様のご多幸をお祈りいたします。

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