ロザリオが繋ぐいろんなこと
2017年12月7日
前回の修道通信を書いている途中で思い出したことがあったので記しておこうと。自分用の備忘録のような話。
先日、若い友人との「ソースとつながる」の話から、「あなたにとっての喜びは?」と聞かれたとき、坂ノ下修道院の活動はわたしにとって本当にピュアな喜びなんだなー、と改めて実感したわけですが、最近、やっていてよかったなと心から思う出来事アリ。
この秋、カラフルなロザリオを作りました。その経緯はブログでご紹介していますが、簡単に言うと、
昨年ポルトガルのファティマという町を訪れた時、これによく似たロザリオをお土産物屋さんで買った。単に「かわいい!」と目をひかれたため。
→ ロザリオは本来、ミサやお祈りの時に使う道具(仏教で言えばお数珠)で、ほんとうはネックレスなどの装飾品ではない。でも、これだけかわいいと装飾品として使ったっていいじゃないか、ぐらいの気持ち。
→ 今年、ご縁あって秋田のカトリック教会のミサに出ることになったので、ふとひらめいて、そのロザリオを持参した。まさか本来の目的で使うとは、買った時には思いもしなかったなあ、という感慨あり。
→ そのロザリオの写真を公開したら、「欲しい!」という声が挙がったので、それなら作ってみよう、もっとキラキラかわいくできるかも、と。
それでできたのが、この商品です。
でも、そこはちゃんとカトリック信者さんの実用として使えるものでありたい。だから球の色の合わせや配置を熟考して、結構マニアックな効果が織り込まれているのです(笑)
この時点で、わたしはこの商品が、装飾品として使われることは考えていませんでした。
それで、先月あるお客様からこのロザリオをご注文いただき、パーツをどうするか、という細かいやり取りをしていく中で、
このお客様は、ロザリオを聖具ではなくネックレスと考えているのではないか?と気づき、それならそのように作れるので確認したところ、いったんは「ネックレスで!」と仰ったものの、その後ロザリオについて検索し、いろいろな情報を調べ、またこの修道通信を読んでくださり、「ロザリオとしても欲しい」となって、バージョン違いの都合2本お買い上げくださったのです。
そのプロセスの中で彼女は、学生時代をミッション系スクールで過ごし、日々のお祈りをする習慣があったのに、多忙な毎日の中でいつしか忘れていた、ということに気づかれた、そして、偶然見つけたこの商品が、また祈りを生活に呼び戻すきっかけになった、というお話をメールにしたためてくださいました。
会ったこともないわたしのことを身近に感じてくださり、この極めて内的で崇高な気づきを打ち明けていただき、嬉しくて胸の奥が熱くなりました。
人は、特に女性は、外側を整えることで内側も整う、といつも提案していますが、「両側」が大切です。単にキラキラしたものを着けていればいいってわけじゃない。
心の平穏というものは、そこに意識をフォーカスする時間を持つことが大切で、祈りはその最たるもの。自分の作るものが、遠く離れたところに住む、会ったことさえない方の、大切な何かに作用したんだなあ、と思ったら、ああ、本当に嬉しい。
さて、この話を「ソースにつながる」ネタの流れで、その若い友人に披露したところ、
「いつから、「祈り」のようなことを意識していましたか?」と次の質問に。
考えてみると、そういうことを、意識し始めた、ということはむしろない。
神社仏閣教会だらけの鎌倉に生まれ、禅宗のお寺の幼稚園に通い、まったく意味はわからないけど「お経を唱えること」や仏像、お坊さんには親しんでいたし、道すがらにお地蔵さんや道祖神があれば「瞬間お祈り」をするのが普通だったなあ、、、、それにそういう人はこの土地には多いと思う。
と話して、「じゃあ、いつからキラキラしたものが好きだったんですか?」と聞かれ、うーん、、、、いつだろう、と考えたがわからなかった。
それで、前回の記事を書いている時に、ハッと気づいた。
キラキラに惹かれるのはこの時から始まったんだな、と特定できたのです。
子供の時、叔母が持っていたこれ(写真)を、一目見て欲しいと思い、「ちょうだい」と言ったら、「ダメよ、これは大切だから」と言われ。
次回会った時に、また「ちょうだい」と言ったら、そんなに欲しいならと言って、くれたのです。
今でも、その時のことを思い出せるのに、どうしてそんなにこれが欲しかったのかはわからない。つまり単に「キラキラしててかわいい」だと思う。子供用のおもちゃネックレスのようなものは興味がなかったことも思い出しました。
で、これをもらって、ネックレスだと思っているから、喜んで頭からかぶって、母親に見せたら
「これ教会で使うやつじゃない!」と(どうして怒るんだかわからないけど)怒られた。
それで、ムッときて、このセンターパーツの下に付いている5つの玉の部分(チェーン)を取って、ペンダントヘッド(メダイ)を繋げて、「これなら別にいいんでしょ」という気分で、やっぱり首にぶら下げた。
そしてこのマリアさまは、それ以降の長い時間を、実家のわたしの部屋の片隅で過ごしていましたが、数十年の時を経て3年ほど前から肌身離さず着けています。
これがロザリオであることを知ったのは、だいぶ最近のことです。(でもこれ、普通なら十字架で作られるはずのロザリオがどうしてマリアさまなんだろう)
そして、このロザリオをもらってから何十年もの時が流れ、どういうわけだか「修道院」と名乗るブランドを立ち上げた自分。。。。
不思議っちゃ不思議。でももはや驚くようなことではなく、なんというか、すべては一本の糸で繋がっていると思う今日この頃。
これ「ソース」につながるというより、自分自身の源流としての「ソース」だなと思ったけど、考えてみれば自分自身の源流それこそが大いなるソースから与えられたもの。
ときどき、「素っ頓狂に思える質問」は自分を掘り下げるのに役立つんだなと感じ入りました。この若い友人に感謝です。
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