どんなところにでも美しさはある
先日のこと。
人には誰でも「ソース(source=源泉)」というものがあって、そこにつながっていると人はエネルギッシュだったり、穏やかだったり、つまり「良い状態」でいられる。
ソースは誰にでもあって、その人にとって「これが好き!」「これをしていると楽しい!」や、ワクワクや喜びを与えてくれるものがまさにソースだ、という話をある人が聞かせてくれました。
それで、「あなたにとってのソースは?」と聞かれたのですが。
汚いものの中に綺麗なものを見るかどうかは自分次第
ワタクシにとって、何が好きか、と聞かれたらそれは「美しいもの」と答えます。
美しいというのは単に美醜というより、自分が美しいと感じるもの、こと、状態、在り方などのすべての総称で、それをいちいち挙げていたらキリがありません。
それに多分どんなものの中にも美しさを見いだすことができると思います。
それはたとえ醜悪な出来事でも、ミニマルに分解された要素の中には、必ず美があると思うのです。
例を挙げると、たとえばゴキブリは醜いもの、気持ち悪いもの、不潔なもの、害のあるもの、とみなされています。でも、たとえば、目をようやく開いたばかりの赤ちゃんがゴキブリを見たら、同じようにそう思うかどうか。
自分に関係のないもの、として凝視した時、あの背中の光沢は「きれい」だと言えるんじゃないでしょうか?
ワタクシがミラノに住んでいた時のことですが、大きな月が出ていた夜、コンクリートの路上に目をやると巨大なゴキブリがいて、ゾッとして思わず足がすくんでしまったわけですが、再度見ると、それが無数であることがわかり(ミラノにはゴキブリが多い!)、心臓がバクバクして、もうどうしていいかわからない気持ちになりました。
でも月の光が、彼らの背中を照らし、大勢は交尾をしていて、それは確かに気持ちが悪いけれども同時に美しくもあった。
それにこんな都会の片隅で、満月の夜、お相手を探しにここに集まってきたんだなと思ったら、何かよくわからない感慨もある。
少なくとも生命の営みとは美しいものだと思うのです。
それ以来、彼らのことを積極的に恐れることはなくなりました。ま、だからと言って、ゴキブリが好きになったわけではありません。彼らにさえも美しさはあるよ、と言いたいのです。
でもこうなってくると、「美しいものが好き」というより、「何かに美しさを見出している自分」が好きなのかもしれません。
こんなところに美を見つけられるなんてラッキーだ!と思うのです。
アクセサリーはそれ自体、縄文の昔から「ソースとつながるモノ」
最初の話に戻って、「何をしている時が好きか」といったら、それはもちろん「修道院の活動」です。
坂ノ下修道院は本当に、大切なアクティビティ。いくつものレイヤーの「好き」が重なっています。
もともとが、キラキラしたもの、ジャラジャラしたものが好きで始めたこと。
まず、一人でデザインを試行錯誤していて「これだ!」としっくりきた瞬間の「やった!感」が好きで、それをひとつの作品として完成させた時が嬉しい。
さらに、自分以外の誰かが、それを「いい」と思って買ってくれるのは嬉しい。
それが届けられた時に、喜んでもらえるのが嬉しい。
何より、それを身につける人に、「疲れていたから修道院のアクセサリーをつけたら元気になった」のようなことが起きるなら、ほんとうに嬉しいことです。
アクセサリーはモノに過ぎませんが、人の気持ちに作用するモノで、だからこそ太古の昔から人間は装飾品を常用していたんだと思います。
つまり、アクセサリーはそれ自体が「ソースとつながるモノ」だと思うのです。
あ、この話は次回に続く。
かもしれません。
【修道院からのおすすめ】
この冬はダークな服に映える「白」をテーマにしようかなと思っています。
つけていることを忘れるぐらい軽いコットンパールとベージュのコンビネーション。重いコートの下は軽やかに!
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