想像を超えてきた『教皇選挙』が示唆に富んでいたよって話

公開と同時に行こうと楽しみにしていた映画。

言わずと知れた「コンクラーベ」。

折しもパパ・フランチェスコが倒れて、毎日毎日容体の発表があって、「二重橋前からお伝えします」のあの時代を彷彿とさせる日々、こんな映画の公開が発表されたから驚いた。

 

しかし例によって事前情報なしで観に行き、想像していたわたしの愛するローマの町が見られるかなってのはまんまと裏切られ、すべてがバチカン領内でのシーンはほとんど舞台劇に近いかも。

また、『ゴッドファーザーパート3』に描かれた、かの国の反社会的勢力の皆様とか銀行のアレコレとかっていうわかりやすさでもなく、しかし全世界共通の「分断」、「進歩と保守」、権力欲とその放棄、なんかの政治テーマがみっちり描かれて、前半戦は息つまる心理戦(カトリックのあれこれになじまない日本の人には退屈かも?)、終盤で怒涛の展開なんだけど、最後の最後に持って行かれた!

これがかなりの衝撃で、劇場出てからもしばらく余韻が凄まじく、ドスーンとくるものだった。実際あり得るだけに。

や、本当によくできた映画で、もしかして名作かもしれない。感動とかそういうのじゃなくて、すごく出来の良い映画という意味。

わたしの嫌いな大げさな演出、イラッとさせるおかしな角度からの複数ショットとかもなく、光を抑えた暗いトーンと静寂多用の演出で、大人向きの良い作品。

 

いろんなことが描かれてた。

修道女という立場の人たちがどういうポジショニングなのか、つまり完全なるマッチョ社会(男性社会)の中で発言権すらろくにない、存在してるけどいないのと同じ、見えざる存在。

教会というものが、1ミリの隙もない男だけの論理で成り立ってきたという事実。(そりゃ、モーホーとか子供相手になんかやっちゃうとか、起きるわけだよ)

つまり「神の前にみな平等」なんていうタテマエは、そもそもローマ教会においては最初から機能しないんだってば。いかに民衆が、実はイエスより聖母を慕ってるかにも関わらず、っていう矛盾ね。

それから進歩派とよばれる人たちと保守の対立。

正直に言うと、ここで保守の人の言い分にかなり頷きそうになってた自分もいるよ。

だけど、保守の人の言い分では、昔の強権的な教会になっちゃう可能性もあるんだよねっていう、これは自分の中にある矛盾。

で、終盤も終盤、あーきっと彼が勝つんだろうなあ、、、でも普通に勝つだけではアレだし、どういう展開させるのかな、、、と思っていたところ、

やられた!!!!

っていうオチになっていた。

これが全く頭から消えていたことだけに「がーん」来た。そして、あ、そうか、そのイシューね、抜けてたね、って後から考えればナルホドなんだけど、

これが非常に「現代」を表してるわけよ。

そして頭の中がグルグルかき回される。

いいでも悪いでもなく、というか、自分の持っている価値観をかき乱されるというか向き合わされるというか。

だって実際ありえるよなって思うもん。

ない話じゃないよなって思うもん。

 

で、それに対して素直に「おおー!!」みたいには思えない自分、というものに向き合わされたよって話。

無理に快哉を叫ばなくていい。でも反対する必要性も感じない。

つまりそれは、ローレンス枢機卿の反応と自分の反応は同じなのよ。多分、多くの人、ほとんどの人がそうなんだろうと想像する。

この映画はそれを伝えたかったんだろうなって思った。

要するにこの世界は矛盾で成立してんだよ。

 

ま、もろもろよくよく考えて、それでわたしはやっぱり思うわけよ。

自分は昭和の人間なんだって。

それを時代に合わせなきゃ!の意識で無理にアプデートする必要もなくて、次の世代の人たちが選択することに委ねる以外ないの。

迎合はしない。ただ委ねるだけ。

自分はただ、両目を開いて死ぬ。

それだけなんだろうなって思う。

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