わたしにしか提供できないものって何だろう?
このところ、北鎌倉の家で過ごす時間を増やしています。週の数日は実家で過ごしている。
実家にいると、自動的にご飯が出てくるから母親ってすごいなあって思います。朝起きたら朝ごはんが出る!わお!!!それに収穫した野菜があっという間に料理に変わるのもすごいことだ。
だけど、なんで突然行ってもご飯にできるものが揃ってるんだろ?
素っ頓狂な母だけど、単純にすごいなと思います。
そして最近は、北鎌倉の家によく人を招いています。
特に東京から来る人はみんな「別天地」だって言います。
わたしにとっては当たり前の空間も、ヨソの人には価値があるってことなのかな、、、
よくよく考えれば、北鎌倉は駅を降りれば都会とは空気が違うし、鎌倉〜江ノ電エリアのキチガイじみたインバウンドの群れとも無縁。
我が家の庭には井戸水の流れる音があり、ピーチクパーチク鳥が鳴きっぱなし。この季節なら蝶やトンボが舞っています。もうすぐセミもやかましく鳴き始めるでしょう。あ、蚊もね(笑)
築80年の古い家です。
今っぽい「古民家リノベーション」でもありません。豪邸でもありません。ヘーベルハウスと対極にあるような、ただ古い家。
田舎のおばあちゃんちに来たようだと言う人もいます。
先日は、以前いたIT会社の社長が来てくれました。
何年ぶりかで酒を酌み交わし、空の下で火を焚きながら日付が変わるまでたくさん語り合いました。
現在の心境や世の中を見ていて感じること、日本社会への危機感、未来展望、、、、
時間も人も他人も気にせず、心ゆくまで話せるのは本当に楽しいし、また現代においてはプレシャスなことだと思う。
7月に修道院から戻ったら、この家でいろいろと提供しようと思っています。まだぼんやりとした構想ですが。
わたしにしか提供できないものって何だろう?とずっと考えていました。
自分のスキルとして、いろいろと提供できることはあります。
けれども、もっと広い意味で、わたしが提供できる最大のものは、この空間なんじゃないかな、と思うようになりました。
ここには、快適な近代設備は何もないけれど、同時にすべてあるような気がしています。
もちろんわたしとして、施術やセッションはします。
しかし客人は、提供者から「(何かを)してもらう」以上に、もっといろいろなものを持ち帰ることができるんじゃないだろうか。
何より大切な「ゆるむ」ということが、人為的な行為ではなく、環境から可能なんじゃないか。。。。
な〜んて考えてます。
もとより「わたしが、わたしが」にあんまり興味はなく、まあ、わたしは何らかのスキルは提供できるけれども、それはあくまで補完的なことでしかなく、それよりもっと大きな概念もあるんじゃないかなー
うまく言えないけど。
草の上で寝転んでみる、
無心に雑草を刈ることで得られる気づき、
自力で火を起こすことで得られる気づき、
沸かした井戸水で淹れたお茶や炊いたご飯の味、
なんなら酒を飲んで一気に心にあることを語る、
墨を擦って書を書いてみる、
銅線を巻いてエネルギーの通りを実感してみる、
まあ、なんでもできるよね。
あるいは一緒にご飯を食べることで、自然と話したいことが出てくる人だっている。その辺の小さな山を散歩してもいい。
「リトリート」って本来は「避難所」とか「退避所」なんかの意味。
日常の喧騒やコンクリートの町から離れて、ものごとや自分自身を捉えなおす。
別に八ヶ岳まで行かなくても(笑)、都心から1時間で着くこの場所は、日常の「避難所」かもしれないなって、わたしはわたしで、「場所」を捉え直しています。
やー、まだ、どうやって提供していくのかまとまってもいないし、最初は試行錯誤でのスタートとなるけれど、またお知らせします。
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