野生のクリスチャン

昨日は藤沢教会で、半日ヴィパッサナーのお約束3回目に。

 

つくづくわかったけど、わたし同じ話を何回も聞くのが本当に耐えられないんだわ。

「同じ話の中に、毎回新鮮さを見いだす」っていうのもまた修行なのではないかと、一生懸命聞こうとした。でも心の動きとして「それはわかってます。早く次に進んでください」しかないんだよ。

これは「せっかちだから」とは違う要素な気もする。英検だって4級から1級まであるのと同じだ。

そして、それなのに「3回必ず受けてください」という「お約束」も、やっぱり意味がないことを確認した。

しかしあらかじめ無意味であることは解った上で受け容れたから問題はない。世の中は、無駄でできていることを確認したまでだ。

そんなわけでいつものように集まった方々や神父さんの対応を観察して過ごした。

 

今回のハイライトはある方の質問だった。

「わたしはある人にすごく傷つくことを言われて、不幸になった。どん底まで落ち込んだ。それなのに、その人は何事もなかったかのように毎日を楽しそうに過ごしている。神はどうしてその人を罰さないのか。その人に罰を与えてくださいと祈っているのに一向にその気配がない」といったもの。

・・・・・すごい!と思った。

まず、これをみんなの前で質問することにためらいがなく、その方の内部から出た非常に素直な気持ちだから、この率直さに驚いた。正直これは賞賛に値すると思う。本音を隠していないのだから。

さあ、この質問に神父さんはなんと答えるのだろう?という点でワクワクした。

さらにわたしならどう答えるだろうか。

自分は不幸に「された」のだから、不幸に「した」相手も不幸になるべきだ、とご自身が考えている。つまりこの世界に不幸な人が増えればいいと思っているわけで、それを神に祈っていることに気づいて欲しい。神がそんな願いを聞くわけがない。神は小学校の先生ではない。、、、、、というようなことを伝えるだろう。

また自分だったら、「相手は自分にしたことなんか1ミリも気にしてない」とわかった時点で、その人のことを考えるのが「アホくさ」と思うだろう、実際、常にそう思ってきた。

そんなヤツに傷つけられてたまるか、って思う。そして、裁くのは神の仕事だから、神が裁かないならもうシャーない!としか思わない。神は忙しいからそんなことまで見てねーわ、と考えたら、やっぱりそんなことを考えるのおは「アホくさ!」と思う。

神父さんの答えは「傷ついたと思っているのはあなたのエゴで、本当のあなたは1ミリも傷ついていない。あなたは生まれてこのかた傷つけられてなんかいない。だから「イマココ」を見つめる瞑想でそのことに気づくといいですね」といったようなこと。

さすがだ。模範解答だ。

しかし彼女がそれを理解したかはわからない。世の中の9.8割の人はエゴの自分を自分だと思っている。

それを脱するために教会に来る。

しかしわからない。

そのループを何年も続けている。

しかし人の人生は短い。だからもっとプラグマティックな方法論を教会は用意すべきだ。それをしないのは怠慢か高慢だと思う。そしてスピリチュアルと称したしょーもないものに信者を奪われていく。

ああもったいない。カトリックに「ふざけんな!真面目にやれ!」と言ったルターの気持ちはわかるw

 

ところで超最近、「野生のクリスチャン」というカテゴリ?が界隈で増えているということを知った。

言い得て妙というか、わたしなんかまさにそれだなと思う。

教会組織も、所属も、神父も必要としていなくて、でも三位一体を自分は信じている。信じるというよりも、実感として「そうだよ」と思う。

ややこしいのが「聖霊」の解釈なんだろうけど、これもカトリックが自分らの既得権死守のため、はっきり定義して言ってこなかったことが悪いと思う。それゆえプロテスタント→ユニテリアンの台頭を許してしまった。

、、、、って、まあいいけど(笑)

っていうより、もう遅いんじゃないかと思う。

だから野生種が増えるのは当然だ。

 

 

話を戻すと、さらに驚いたのが、この方の次の質問だった。

驚いたし、この方の言ってることは超わかる。

「イエスを信じる者は永遠の命を手に入れる、と聖書は言いますが、正直わたしには響かない。今の人生がじゅうぶん辛いのに、永遠の命なんて魅力に思えない。むしろこの人生ですら早く終わりたいのに。一体生きる意味なんてあるのでしょうか」。

この方は本当に素直なんだと思う。洗脳もされていない。

そして「生きる意味なんてどこにあるのか」は人類にとっての大命題だ。

自分なら答えられるか?

・・・・・・・答えられると思う。

「人生そのものに大した意味はない。でもその代わり意味を自分で自由に見いだすこともできる」が結論だ。

なうの人生は、「しょーもない人生だった」と思ったとしても別に良いではないか。別に、明るく希望に満ちていなければならないと思っている方が苦しい。

永遠の命とは輪廻のことで、今回しょーもなかったら、次回はめちゃハッピーになる権利もある。あるいはあなたを傷つけた例の方のような人生かもわからない。

(→ ここでも神父さんは模範解答をさらりと示されていたように記憶しているが、わたしは極度の体調不良でよく覚えていない。来週修道院で確認して来ようと思う。輪廻を否定するキリスト教はなんと諭すのだろうか確認したい)

 

しょもないスピなら、「あなたの現実はあなたが創っている」という原理原則を叩きつけてしまうだろう。

でも、この方は明らかに「鬱」だ。

この状態にある人にそんなことを言ったらどうなるか。

わたしなら、まず彼女を覆っている暗い雲を祓ってからお話をさせてもらうだろう、、、、

とか、いろいろなシミュレーションをして過ごした。

 

みんな救いを求めているんだなあ、、、、、としみじみ思う。

それをこじれさせているのもまた宗教なんだよなあ。

信仰と宗教は別のものなんだけどなあ。

 

ともかく「ハッピー洗脳」から抜けた人が、真のハッピーにたどり着くんだよ。

 

 

 

 

LINEで繋がろう!

友だち追加 ・大きな声では言えない真面目な話 ・お得な情報 ・クダラネー話 なんかが届きます!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA