【修道日記】(7)神父と神秘。スピ選民思想への戒め
「信用できる」というのは
神父さまは理性的な人だった。頭脳明晰で言語能力が高く、どこまでいっても理性をブラさない。
信用できる。
それでわたしは考えたのだけど、わたしにとっての「信用できる」は、その人の中での矛盾のなさ、その人の中での筋の通し方、を理解した時に生まれるのかなーとか。
だから「この人は信用できる」イコール「この人の言ってることはすべて本当だと“信じる”」ってことにはならない。
そのふたつは全く違う。ぜんっぜん違う。
「〇〇さんが言ってるんだから信用できる」って、その〇〇さんはどうして信用できるのか、と言ったら権威でも肩書きでもなく、ましてやフォロワー数や書籍の売り上げ数でもなく(笑)、
どのようにものを見て、どのように捉え、どのように解釈してきたような人なのかなってことを自分は考える。
自分の判断を他人に委ねた挙句、ある日「裏切られた」って感じるなら、それはそもそもが違っている。自分は自分の判断に責任を持つだけ。
妄想と葛藤の発生
ある日、ふと、
「や、待てよ。この方は理性に徹しているけれど、これだけ長い年月ヴィパッサナーをやってきているんだから、もしかして「松果体がひらく」という感覚をお持ちなのでは?
だけど、そんなことをいわばこの生徒さんたちに言っても混乱するだけだから、敢えて言わないのでは?この方はもしかして、その奥にあるものを本当は知っていらっしゃるのでは?」
などと勝手な妄想がむくむくと出てきた。
またこの方は、聖書に出てくるイエスの行なったいわゆる「神秘」を「否定はしませんが、(実際どうなのか)わからない」、いわば扱いに困ると言ったスタンスをとっていらっしゃるけれど、、、、、
そうなると確認したくなるのがわたしというもの。
それではこの方は、実際にわたしに起きてる異常な出来事の数々はどう捉えるのだろう。
だって、この方だって、ヴィパッサナーを続けていれば、ある日突然
「え?」
ということが起きる可能性があるわけなのよ。
しかし、わたしにだって葛藤はある。
いやいやいや、ここは神父さまの牙城を乱してはならない。困らせてはいけない。
でもあんた、この方はナマジな方じゃないよ?この先直に話す機会なんてないんだよあんた。
・・・・・そんなセルフ押し問答を繰り返した挙句、「行け!確かめるが良い!」という結論をわたしは下した。もし今後この会に参加しても、このフレッシュさを持っているのは今この一度きりだよ!という己の声に従って。
そしてわたしはノートを引きちぎってメモを書き、折りたたんでそっと渡した。超絶ビビりながら。
さんざん悩んだ挙句のお願いです。1時間ほどお時間をください、お話ししたいことがあります。
・・・・・・・はっきり言って御法度だ。要するにルール破りだ。
しかしルールを破ることにかけて、わたしはプロだ。プロにはプロの意地がある。
とかなんとか。
かなりな緊張を持って臨んだが、結局ベラベラ話した
ともかくも、快くか渋々かはわからないけれど、神父は応じてくれた。
わたしは超緊張しながら、自分に起きた様々なこと、
父の死に伴う臨死体験、夜中にマリア像を並べたら、「なんか」が入ってきて全身を通って抜けていったこと、マリアグリッドに何か力があること、そしてそれは進行があろうがなかろうが関係なく再現性があること。
また自分が人の「生と死の間」のエリアに関与(したくなくても)すること、その時に起こる、普通ではあり得ないこと、、、、
言葉を選びながらも、まあかいつまんで話した。
彼は黙って聞いてくれて「そんな話は今まで聞いたことがない」と言い、それは否定するつもりはないけれど、自分にはまったく体験がないことなので言うべき言葉がない、と仰った。
「「アビラの聖テレーズ」という聖人がいて、霊的な力を持っていた話は有名です」。
それから「イエズス会に英神父という人がいます。彼はそういう能力がありますからたぶん話が合うと思います。探してごらんなさい」。
でも、神父さまにだって突然起きることかもしれません。
「いや、わたしは「無条件の愛」を極めることに注力します」
それはわかります。わかりますが、その先に「起きちゃう」ってことがあります、、、、と、その先は言い張るのをやめて、というより自分は何を言い張ってるんだろかいな?という冷静さが出たきたので、テヘペロで話をやめた。
スピ選民思想への戒め
しかし、話はここからで、
神父は「そういう話は一般的ではないですからあまり話さないように」。
はい、承知しています。もちろんここの人にベラベラ喋ったりしません。
「それから、そういう能力を持つことよりも、毎日きちんと取り組みを続けることの方がよっぽど大事です」と続けた。
・・・・グーの音も出ない。そして、やはり信用できる。
この言葉は決して軽くはなく、大きな戒めをもらった気がした。
この数年で感じていた、いわゆる「スピ選民思想」と自分が密かに名付けていた、界隈への違和感に解をもたらすような気もした。
「●●の能力があります」「●●さんの●●は本当にすごいです」とかも含めて、
だから何?
と思う自分はずっといて、この選民思想の持ち主に「感じワル!」を感じて遠ざかったこともある。
またこのわけのわからない選民思想に自分は陥るまい、としてきたけれど、「ハタから見たら皆同じ」なのかも知れず、、、、と考えた時、うへぇ〜と自己嫌悪感も覚えた。
だけど、
一方で、自分に限らず、このおかしな能力?体質?を持ってる者にしかできないこともあるわけで、自分にしたら良いでも悪いでもないわけだけど、
でも「みんながイエスみたく病気の人を治したら、この世界から苦しむ人はいなくなる」って考えていることもこれまた事実だ。
わたしがみた限りこの世界っていうのは、今まで教わってきたような常識的なものではないし、この神父さまは信頼できるし素晴らしいけれども、教会というものの限界もわかったわけで、じゃ、自分としてどのような在り方でいくのかなっていうのは逐次自己チェックしていくべきとこなんだな、ってふうにとりあえずはいったん腹に落とした。
翌日、神父さまはこの「アビラの聖テレーズ」の話を講義にまぜた。
それは明らかにわたしに向けられたものだと悟って聞いた。
彼女(聖テレーズ)は修道院で身体が浮き上がってしまう現象を得るようになったが、それを周囲に悟られまいと必死に机に手をついて押さえた、というエピソード(ちょっとウケてしまった)と、そのような力を持つ者はなおのこと何かの代償を払うものだ的なことが語られた。
・・・・折を見て、調べてみようと思った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5
まあ、この一連のことで、自分は「誰かに戒められてみたかった」んじゃないかなあ、とも感じた。
誰に戒められるかはとても重要で、その意味でもとても満足した。
>>>続く
セッション再開です!田舎の家でお待ちしています!


