島根旅:物部神社鎮魂祭

島根旅:温泉津温泉〜朽ちていくものに美はあるのだろうか

忘れた頃に、この続き。 11月24日。朝、かつては宍道湖の水がかぶるところにあったという売布神社に参拝し、神主さんのあげる大祓祝詞響く中、塩番茶をいただき温まる。 …

おっと、この件まだだった。年を越す前に書き終えておこう。

ご縁というのは不思議なもので、数年前まで物部神社はおろか「鎮魂」の意味するところさえ知らなかった自分が、今では律儀に毎年赴いている。

そういうことを鑑みると、5年前の自分が、今の自分を想像できたかと言えばまったくもってNOなので、5年後だってどうなっているやら予測もつかなくて当たり前。

去年はメキシコ旅で鎮魂祭をスキップしてしまったから、なんとなく締まりのない1年だったのは多分気のせいにすることにして、今年は無事に参列できてホッとしている。

こういうのは何なんだろう。

自分の中に、言葉にすれば、なにか「義理を果たした」みたいな気分があることは事実で、てことは裏返せば「義理を欠いてはいけない」的な極めて日本人らしい価値観を隠し持っているってことに気づく。

だって、じゅうぶん世話になっているんだもの。

わたしは比礼やたまの、つまり十種神宝の恩恵を行使して、自分だけでなくクライアントへのサービスとして提供している。

こんなものは「自分のチカラ」なんかではないことは、自分が一番よくわかっているので、非常に恩義を感じていて、ああ、「恩義」とか「義理」とか、ほんとジャパンDNA(笑)だなって思う。

そんなもの必要ないと言い切ることの、なんと情緒を欠くことよ。

とかなんとか。

夜8時の開始まで時間があるので、温泉津温泉の後で琴ヶ浜に連れてってもらった。

「鳴き砂」で有名なところ。足で踏むと、キュッキュと音がする。

浜に白い、雪のような塊が線状に落ちている。初めて見るものだけど「これが波の花ってやつだな」とわかった。冬の日本海でしか見られないものだ。

舐めてみたけど、なんの味もしなかった。しかもまずい。後で検索したら、プランクトンの死骸的な。相当バッチイものらしいw

ここでは砂はサラッサラでベージュ色。

うちの方で砂と言ったら黒くてベトベトした重いもの。稲村ガ崎の砂は砂鉄だからさらに黒い。

同じ「砂のような」と言っても人それぞれ脳裏に浮かぶイメージはまるで違うんだろうな。

言葉とイメージといえば、「鎮魂」はまさにそれで、

仏教的な解釈でいえば、亡くなった者の魂を慰めるもの。例えば夏に花火大会が多いのは、死者の霊を弔うためで、そもそもお盆の習慣と近い位置関係にある。例で言うと長崎の新盆は盛大に花火を上げる、しかもお墓で。

でも神道的な鎮魂とは、それとはまるで関係がない。100%生きている人間のためのものだ。

ふるべゆらゆら。魂を揺らす。

人は生きている間にいろんなオリがついてしまい、魂の動きが鈍くなる。オリというのは肉体的な疲れやストレスなど精神的疲れもそうだし、他者から受けている霊的な攻撃なども含まれる。

それを儀式で揺らすことで、悪いものが雲散霧消するわけだが、こればっかりは言葉でいくら説明しようと、体験に勝るものはなし。儀式が始まってしばらくすると急にゴホゴホ言い出す人もいる。「お〜、出てっとる出てっとる」と思ってその音を聞いている。

ちなみにわたしのセッションでは比礼を使っていろいろすると、クライアントはゴホゴホしたり、寒気がしてやがてそれが消えたり、涙を流したり、身体の中心が暖かくなったり、きちんとグラウンディングできるようになったり、その人によってまるで反応は違うが、何がしかの反応をする。繰り返し言うけれど、それはわたしの力ではなくて、「十種神宝」の力だ。わたしはただ、ヒラヒラさせたりさすったりしているだけ。

今回の鎮魂祭では、わたしは前回を反省して、祭祀の前に酒を飲まんかったw

前回は近くの回転寿司でしこたま食べながら、あったまるからと言って日本酒飲んだ。そりゃ暖まったし地酒、地魚美味しかったけど、鎮魂祭で感じられる「効果」がイマイチ早苗だったことを反省したというわけ。

宮司や神官の皆様はこの日のために何日も斎戒沐浴して臨んでおられるわけで、まあ、わたしは調子乗ったわけだが、結果バカをみた。

今回も寿司には行ったが我慢してお茶で通し、儀式ではきちんと、五臓六腑にちょこんと灯がともるような、暖色の豆電球がポッと点くような、微細だけれども確かな発火を感じてスッキリし、とても良かった。

毎回思うことだが、新嘗祭というこの日に、ああ、こんな素晴らしい厄落としの祭祀が行われ続けているというのに、これを「迷信」の類に入れているのが現代科学であり、現代人の「理性」と呼ばれているものだ。

はっきり言ってこれは信心には関係なく、誰でも実感できるものなわけだが、その裏には深遠な量子の世界がある。こういうものは精神文化というより超科学の世界だ。

そんなものが古代から連綿と引き継がれているわけで、なんたることか我が国は。

わたしは偏狭なナショナリズムも国家神道も受け付けないけど、「古いものはもう要らない」的なことを言い切る「進歩的な人々」にもヘドが出る。

わたしらは鳥居の前で、何に対して頭を下げているのかわからないけれど、大いなる何かに対して畏怖の念というよりは、「人ンチに来たらお邪魔しますと言う」というようなもんかもしれない。

鶴はやっぱりグッとくる。

日本酒でも、ラベルに鶴が描かれてるだけで買いたくなるのはなぜか。(俺だけか!)

ともかく。

今年も無事に参拝できたということが何より良かったよ。

この日は雨予報、祭祀の前に周辺は大雨だったけど、わたしがいるのに雨が降るわけがない!と、まず豪語していた(笑)けど、実際は、神社の周辺だけは雨が降らなかった、というのも凄いわなあ。

さようなら物部の神様、来年またね!

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